平泉寺訴訟の影響
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寛保2年(1742年)7月、平泉寺は加賀の尾添村、美濃の長滝寺、石徹白に対して幕府の寺社奉行に訴訟を起こした。訴訟の内容は江戸時代になって「白山別当神主」の地位を与えられ、白山信仰の中心的な役割を果たすようになった平泉寺が、他の白山への玄関口に当たる加賀の尾添村や美濃の石徹白などの白山信仰に関する宗教活動を抑えることを目的としたものであった。 石徹白では神主である石徹白大和が病気であったため、名代として子の石徹白豊前が中心となり、平泉寺の訴状に対する返答書を提出した。寛保3年(1743年)2月から寺社奉行の大岡忠相による吟味が開始され、石徹白豊前は裁判に出席するため江戸へ向かった。寛保3年6月25日(1743年8月14日)には判決が下され、平泉寺の主張がほぼ全面的に認められ、白山と白山信仰は平泉寺の支配を受けることとされた。また平泉寺は寛永寺の末寺とされ、平泉寺の白山支配の上に寛永寺による統制が加えられることとなり、幕府による白山信仰の統制が固まった。 この平泉寺による訴訟の結果、石徹白は敗北した。裁判に参加した石徹白豊前は、勝利を収めた平泉寺のバックには寛永寺の権威があったと判断し、権威や権力の力を借りることの重要性を認識したとの指摘がある。
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