宮澤内閣
宮澤内閣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 15:11 UTC 版)
1992年に東京佐川急便事件で金丸信が失脚し、自民党支持が急落する一方、金丸失脚に伴う旧竹下派の後継争いから羽田孜・小沢率いる改革フォーラム21が竹下派から割って出る事態となった。反主流派となった羽田・小沢派が宮澤改造内閣で冷遇されるに至ると、政治改革を旗印に同内閣と小渕派を「守旧派」として激しく攻撃するようになった。そこで選挙改革が焦点となった。 世論が政治改革へ高まりを見せる中、宮澤首相はインタビュー番組「総理と語る」に出演、田原総一朗から「政治改革を必ず実現する」「どうしてもこの国会でやる」と言質を取られ、結果的にこれが命取りとなった。 海部内閣の政治改革3法案の失敗の一因が区割りへの反発であったため、まず区割り以外の法案を成立させ、その後に改めて具体的な区割り法案を審議する戦略がとられた。だが与党内の選挙制度改革慎重派は、野党が飲めない案として純粋な小選挙区制による法案とすることに成功した。当時はねじれ国会であったため、参議院で法案を可決するには野党の賛成が必要であったのである。 羽田・小沢派による激しい批判の中、政治改革4法案は与党の議員提出法案として国会へ送られた。この法案は与野党双方からの反対の中で否決され、社会党を中心に野党から宮澤内閣不信任案が提出された。羽田・小沢派は野党に同調し、不信任案が可決され、宮澤内閣は衆議院解散を選択した(嘘つき解散)。
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