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実隆公記

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/29 07:02 UTC 版)

実隆公記』(さねたかこうき)は、室町時代後期の公家三条西実隆の記した日記。期間は、文明6年(1474年)から天文5年(1536年)までの60年以上に及ぶ。同時代の一級資料。記述は京都朝廷公家戦国大名の動向、和歌古典の書写など多岐に及ぶ。自筆本が現存し、1995年(平成7年)に重要文化財に指定された。


  1. ^ 高橋秀樹「歴史記録への招待」『歴史読本』(2000年6月号)、261~262ページより。
  2. ^ 高橋「歴史記録への招待」、『歴史読本』(2000年6月号)、260~261ページ。同論文で高橋は実隆を一条兼良藤原定家二条良基と比較し、インターネットで検索できる「国書基本データベース」での著作件数をもとに、実隆が著述家として優れていることを主張している。
  3. ^ 所蔵史料目録データベース(Hi-CAT) - 詳細(全表示)”. wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp. 2023年12月29日閲覧。
  4. ^ 画像表示 - SHIPS Image Viewer”. clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp. 2023年12月29日閲覧。
  5. ^ a b CS放送番組『実隆公記』の台本
  6. ^ 「活套」とは、禅僧の間で雑記のこととして用いられた語である(末柄豊「『実隆公記』と文書」(『日記に中世を読む』180ページ)より)。
  7. ^ すべての原本のリストは実隆公記原本目録 (PDF)参照。高橋「歴史記録への招待」(『歴史読本』2000年6月号、260ページ)によると、東京大学史料編纂所に巻子本106軸・折り本1帖・冊子本44冊・断簡1紙および、尊経閣文庫陽明文庫には巻子本各1軸が残されている。太平洋戦争の戦災により(当時は三条西家で保管されていた)、巻子本10軸、冊子15冊あまりが焼失している。
  8. ^ a b 末柄「『実隆公記』と文書」(『日記に中世を読む』179ページ)。
  9. ^ 末柄「『実隆公記』と文書」(『日記に中世を読む』185ページ)。
  10. ^ 芳賀『三条西実隆』10ページ(ページ数はすべて1960年版による)。芳賀は「慢性化した戦闘に対して不感症となり、これを対岸の火事視することは、都の人々一般の態度」であったとしている。
  11. ^ 芳賀『三条西実隆』19ページなど。
  12. ^ 芳賀『三条西実隆』21ページ。
  13. ^ 芳賀『三条西実隆』61ページ。
  14. ^ 芳賀『三条西実隆』79ページ。
  15. ^ 芳賀『三条西実隆』90ページ。
  16. ^ 芳賀『三条西実隆』103ページ。
  17. ^ 芳賀『三条西実隆』86~87ページ。
  18. ^ 芳賀『三条西実隆』57~58ページ。
  19. ^ 芳賀『三条西実隆』111~112ページ。
  20. ^ 高橋「歴史記録への招待」(『歴史読本』2000年6月号、242ページ)。実隆公記に現れる所引書名および和歌・漢詩などの一覧は『実隆公記書名索引』にある。
  21. ^ 芳賀『三条西実隆』153ページ。「五十に至らずして易を学ばば殃(わざわい)にあう」と信じられていた。
  22. ^ 芳賀『三条西実隆』12ページ。
  23. ^ 芳賀『三条西実隆』41ページ。
  24. ^ 芳賀『三条西実隆』155ページ。
  25. ^ 高橋「歴史記録への招待」(『歴史読本』2000年6月号、243ページ)。
  26. ^ 芳賀『三条西実隆』37ページには、文明15年(1483年)の記述として「四海昇平の春、一朝再興の時、尤も珍重々々」とあることを示し、彼の最大の願望が朝廷の復興であることを指摘している。
  27. ^ 芳賀『三条西実隆』187ページ。
  28. ^ 芳賀『三条西実隆』189ページ。
  29. ^ 芳賀『三条西実隆』85ページ、同90ページなど。
  30. ^ 芳賀『三条西実隆』62ページ。
  31. ^ 芳賀『三条西実隆』204ページ。
  32. ^ 芳賀『三条西実隆』182ページ。
  33. ^ 芳賀『三条西実隆』233ページ。
  34. ^ CS放送番組『実隆公記』の台本二尊院に残る実隆62歳の時の肖像がもっとも有名である。
  35. ^ 芳賀『三条西実隆』112ページ(肖像の挿絵は113ページ)、およびCS放送番組『実隆公記』の台本。CS放送の台本によると、「比興」とはつまらないこと、という意味である。
  36. ^ 増川『遊芸師の誕生』46~47ページ。
  37. ^ 増川『遊芸師の誕生』43ページ。
  38. ^ 芳賀『三条西実隆』129ページ。
  39. ^ a b 増川『遊芸師の誕生』45ページ。
  40. ^ 駒数42枚の小将棋が、実隆の直後の時代である天文年間に現在の形になったという言い伝えがある。諸象戯図式参照。
  41. ^ 『将棋の駒はなぜ40枚か』(増川宏一集英社ISBN 4-08-720019-1)の55ページで、増川は実隆が単に「将棋」と記述しているものは中将棋のことであるとしている。
  42. ^ 芳賀『三条西実隆』139~140ページには、永正3年(1506年)の資直の昇殿について殿上人27人が反対し、実隆が仲裁にあたったことが指摘されている。
  43. ^ 増川『遊芸師の誕生』50~62ページ。
  44. ^ 増川『遊芸師の誕生』32ページ。増川は同ページで文明6年(1474年)に最初の駒書きを行ったと指摘しているが、実隆公記内にこれに相当する記述は見られない。
  45. ^ 芳賀『三条西実隆』92ページおよび増川『遊芸師の誕生』32~33ページ。芳賀はこの記録を最初の駒書きとしている。
  46. ^ 芳賀『三条西実隆』256ページ。
  47. ^ ノートルダム清心女子大学 日本語日本文学科 リレーエッセイ 毎月更新!(同大学の清水教子による、2007年8月の記述)。


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