宝勝寺 (群馬県甘楽町)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/08 23:44 UTC 版)
宝勝寺(ほうしょうじ)は群馬県甘楽町にある仏教寺院。境内には鎌倉時代や南北朝時代の石造遺物を有し、甘楽町の重要文化財に指定されている[3]。
注釈
- ^ 小幡氏は古代の武蔵七党の児玉氏または片山氏の末裔と伝わる。戦国期には山内上杉家の家臣として奮ったが、上杉憲政の時代に武田信玄や北条氏康が進出して山内上杉家が衰退すると、小幡氏は上杉派、武田派、長野派などに分裂して争うようになった。小幡憲重は当初上杉派だったが、居城を長野派の同族に攻め落とされて落ち延び、武田家に仕えた[4]。
- ^ 一帯は天引石と呼ばれる砂岩や秩父山系から産する緑泥片岩などを産し、古くから石材の産地だったことが知られている。甘楽町内の板碑のうち、銘板が判読できるものだけで48基が確認されており、なかでも「仁治の板碑」は高さ3メートル80センチ、幅96センチの大きさがあり、仁治3年(1242年)2月8日の銘がある。これは西毛地方では最古のもので、町の重要文化財に指定されている[6]。
- ^ 鏑川は一級河川利根川の水系に属する。利根川が本流で、その支流烏川、その支流が鏑川である。さらに鏑川の支流が天引川、その支流に白倉川があり、三途川はその支流。利根川から数えると5次支川である[7]。
- ^ 奪衣婆は、三途の川の渡し賃(冥銭)を持たない死者がやってくると、その衣服を剥ぎ取るとされている。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『日本歴史地名大系10群馬県の地名』p270「宝勝寺」
- ^ a b c d 甘楽町役場公式HP,社会教育課 文化財保護係,甘楽町指定文化財,宝勝寺起立文書,2018年6月11日閲覧。
- ^ a b 『角川日本地名大辞典10 群馬県』p1192「金井」
- ^ 『角川日本地名大辞典10 群馬県』p1190「小幡氏の興亡」
- ^ 『角川日本地名大辞典10 群馬県』p268-269「金井」
- ^ 『角川日本地名大辞典10 群馬県』p1190「数多い石造遺物」
- ^ 産経ニュース,2016年10月1日付,,【北関東怪奇伝説】あの三途の川と死後の処遇を決める脱衣婆(だつえば)が群馬・甘楽町に実在した…ほとりの小屋では鬼の老婆がカッと目を見開き…(2ページ目),2018年6月11日閲覧。
- ^ a b c d 産経ニュース,2016年10月1日付,,【北関東怪奇伝説】あの三途の川と死後の処遇を決める脱衣婆(だつえば)が群馬・甘楽町に実在した…ほとりの小屋では鬼の老婆がカッと目を見開き…(1ページ目),2018年6月11日閲覧。
- 1 宝勝寺 (群馬県甘楽町)とは
- 2 宝勝寺 (群馬県甘楽町)の概要
- 3 歴史
- 4 参考文献
- 宝勝寺 (群馬県甘楽町)のページへのリンク