守護就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:54 UTC 版)
弘治3年(1557年)に防長経略を行い、大内義長を滅ぼした。しかし旧大内領をめぐって豊後国の大友宗麟が西から、出雲国の尼子晴久が北から侵攻してきたため、元就は北の尼子氏に、隆元は西の大友氏に対応することになった。毛利氏にとっては非常に危機的な時期ではあったが、隆元は弟の隆景の支援を受けつつ大友氏を撃退することに成功した。 永禄2年(1559年)、隆元は元就との連署で正親町天皇の即位料を朝廷に献納した。毛利氏の献金は総額二千五十九貫四百文に及んだ。 永禄3年(1560年)、第13代将軍足利義輝より、安芸の守護に任じられた。また、正親町天皇の即位料を献上した功績により、朝廷から大膳大夫に任じられた。この口宣案には義輝の袖花押が添えられていた。 永禄5年(1562年)、隆元は幕府から備中・備後・長門の守護職に、永禄6年(1563年)には周防の守護職に任じられる。これにより毛利氏は、正式に中国地方の大名としての立場を認められたこととなり、国人領主連合という従来の支配体制も急速に大名家のそれへと変貌していった。 永禄3年(1560年)に尼子晴久が急死して尼子氏の勢力が衰退し始めると、九州戦線を受け持っていた隆元は幕府の仲介を利用して大友宗麟と和議を結び、尼子討伐に全力を傾けるようになる。
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