天理高校野球部時代
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清水は1958年に奈良県高野連の審判となり、1970年には奈良県高野連の理事に着任するとともに、天理高校硬式野球部長となった。1975年8月まで、部長として野球部を支えこの間、1972年の第54回全国高等学校野球選手権大会のベスト4進出に貢献している。また、後援会のアドバイスを容れ、1975年には、白→黒→紺と変遷を重ねてきたユニホームを、純白に紫、ネームを銀糸で囲むものに変更している。1975年9月に監督に就任、1976年は鈴木康友、福家雅明を擁し春夏連続出場を果たす。1977年の春にはベスト8進出。また1978年の夏には、2回戦で津田恒美の南陽工を若井康至(若井基安の兄)の本塁打で下すなど、天理高校史上初の大会3勝を上げベスト8に入る(1972年は2勝だった)。1979年も春夏連続出場した。1980年夏、藤本博史、川本和宏、小山昌男の2年生トリオを擁し快進撃。準決勝に進み愛甲猛の横浜高等学校に雨中の熱戦の末に敗退した。主力が2年生の為にその後に期待が持たれたが、不祥事が発覚、野球部は1年間の対外試合禁止処分となり、清水も11月に監督を辞任した。甲子園出場7回(春3回、夏4回)、通算12勝7敗(春3勝3敗、夏9勝4敗)であった。部長としての出場は、春2回、夏3回の計5回。
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