壁の崩壊と再統一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 14:17 UTC 版)
詳細は「ベルリンの壁崩壊」を参照 1989年になるとポーランド民主化運動やハンガリー民主化運動の影響を受けて東ドイツ各地や東ベルリンで反体制デモが多発し、多くの東ドイツ国民がハンガリーやチェコスロヴァキア経由で西ドイツへ逃亡するようになっていた(汎ヨーロッパピクニック)。10月、東ベルリンでドイツ民主共和国建国40周年記念式典が開かれ、貴賓として出席していたミハイル・ゴルバチョフは演説で、ハンガリーやチェコスロヴァキアに逃れた亡命者に関する東ドイツの締め付け政策を認めないということをほのめかした。これによって、東ドイツ政府がソ連の後ろ盾を失ったことが明らかになり、それまで実権を握っていたエーリッヒ・ホーネッカー国家評議会議長(兼ドイツ社会主義統一党書記長)は失脚し、エゴン・クレンツが後継者となったが混乱は続く一方だった。 11月9日、ボルンホルム通り(ドイツ語版)検問所の国境警備隊は、SED 政治局員ギュンター・シャボフスキーが記者会見での勘違いによる発言を信じて押し寄せていた東ベルリン市民が西ベルリンに通過することを認めた。この他の検問所もこれに続いた。多くの東ベルリン市民がその夜の内に国境を超えた。多くのベルリン市民がブランデンブルク門の周りで壁によじ登り、周囲は祭りのような活気に包まれた。旅行の自由は取り消されることなく、壁はそのまま取り壊された。多くのベルリン市民が金槌や鑿を手に、いわゆる „Mauerspecht“(壁キツツキ)になって、壁のかけらを記念品として持ち帰っていった。この事件は後に「ベルリンの壁崩壊」と呼ばれることになる。 東ベルリン市長ティノ・シュヴィーアツィナ(ドイツ語版)と西ベルリン市長ヴァルター・モンパーはその後取り決めを交わし、再統合に伴う数多くの業務に着手することを決めた。両市長はメディアにおいて「シュヴィーアツォンパー、あるいはモンプツィナ (Schwierzomper oder Mompzina)」という表現で揶揄された。 1990年10月3日、ドイツ、そして同時にベルリンが再統一された。再統合に関する同意により、連合国はベルリンの統治権を放棄し、これによってベルリンはドイツ連邦共和国を構成する領域となった。その後12月2日に統一ベルリン初の市議会選挙が実施された。
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