執権以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 06:12 UTC 版)
宝治元年(1247年)3月27日、北条時盛の娘と結婚する。6月の宝治合戦の後の7月、父・重時は第5代執権で娘婿の北条時頼を補佐すべく鎌倉に下向し(『葉黄記』)、父が鎌倉に下向した翌日の7月18日に後任として長時が六波羅探題北方に就任した。『葉黄記』の同年6月6日条の記事として、同年5月に時頼の妹で将軍藤原頼嗣の正室であった檜皮姫が重態となったため(5月13日死去)に父の名代として鎌倉に下向していた長時から派遣された飛脚がわずか3日間で京都の重時の元に到着した、とする記述を載せている。宝治合戦があったのは6月5日のことであり、長時は鎌倉にいて合戦前夜の現地の緊迫した情勢を伝えたと推測される。重時を宝治合戦の黒幕(プランナー)とみる石井清文は、京都にいた重時が鎌倉の長時を通じて時頼や安達景盛と連絡を取り合っていたとしている。 宗尊親王の将軍擁立に当たった。親王が鎌倉に下向する際は、供奉と担当した。建長8年(1256年)に引退した父の跡を受けて鎌倉に戻り、評定衆に加わる。六波羅探題北方は同母弟時茂が就任した。同年7月、武蔵守に任官される。
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