執政武官そして副官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/01 23:49 UTC 版)
「アウルス・コルネリウス・コッスス」の記事における「執政武官そして副官」の解説
翌紀元前427年、まだ混乱収まらぬローマはウェイイと賠償交渉を行ったもののまったく相手にされず、翌年の開戦と執政武官制とすることが決定された。 紀元前426年、コッススは執政武官に選出された。同僚はポエヌス・キンキナトゥス、ガイウス・フリウス・パキルス・フスス(英語版)とマルクス・ポストゥミウス・アルビヌス・レギッレンシス(英語版)であった。コッススはローマに残り、他の三人がウェイイに向けて進発したものの、指揮系統がバラバラなために敗北してしまった。 人々はこの年の執政武官制を勝ち取った護民官に責任転嫁し、独裁官の選出を望んだ。しかしながら独裁官の指名権は執政官にしかなく、この年は執政官不在のため、アウグルによって執政官経験者でもあるコッススに指名権が与えられた。コッススはこの時期公民権を剥奪されていたマメルキヌスを三度目の独裁官に指名すると、マメルキヌスはコッススを副官とし、エトルリア連合軍と戦うこととなった (フィデナエの戦い)。 戦いではエトルリア側の炎での威嚇にローマ軍がたじろいだため、マメルキヌスは怖気づく味方を叱責した。騎兵を率いるコッススは手綱を手放して突進するよう命じると、舞い上がる砂と炎の煙で兵と馬の視界から炎を消し去る事に成功した。またマメルキヌスの巧みな用兵によって挟撃に成功し、大勝したローマは余勢を駆ってフィデナエを陥落させた。戦利品と共に帰国したマメルキヌスはコッススに副官を辞任するよう促し、自らも独裁官を辞任したという。
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