地方総督、2度目の副王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/04 14:49 UTC 版)
「ヴワディスワフ・オポルチク」の記事における「地方総督、2度目の副王」の解説
この補償として、ヴワディスワフにはハールィチ・ヴォルィーニ総督の地位が与えられた。この新しい役職においてもヴワディスワフは有能さを発揮し、任された地域の経済的発展にかなり貢献した。彼は主にルヴフに住んでいたが、任期の最後にはハールィチで過ごすことが多かった。在任中に起きた紛争は、総督であるヴワディスワフが東方正教会に接近したことで生じた。総督のこの行動は、大貴族達の中の熱心なカトリック教徒をひどく憤慨させたのである。 娘のポーランド王位継承を安全にする目的から、ラヨシュ1世は1374年、ポーランド貴族達にコシツェの特許状を与えたが、これはおそらくヴワディスワフの進言によるものだったと考えられている。 1378年、王母エルジュビェタがポーランドの摂政を退いてハンガリーに帰国すると、ラヨシュ1世はヴワディスワフをハールィチ総督職から空席だったポーランド宮中伯職に転任させた。しかし、ヴワディスワフは就任後、すぐに自分の娘を王位の相続人に指名したラヨシュ1世に不満を持つ貴族の反抗に直面した。ポーランド貴族達はラヨシュ1世の後継者指名を受け入れる代わりにヴワディスワフのポーランド宮中伯職辞任を要求し、ヴワディスワフはまたも解任の憂き目に遭った。
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