和約締結後の3ヶ国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 03:18 UTC 版)
「アラスの和約 (1435年)」の記事における「和約締結後の3ヶ国」の解説
イングランドは頑なにフランス王権を捨てなかったこと、ブルゴーニュとフランスの関係修復に注意を払わなかったため、ブルゴーニュを失う失策を犯した。一方の善良公はイングランドと戦争しないことを書き送ったが、怒り心頭のイングランドはロンドン市内のフランドル商人を血祭りにあげ、海上でフランドルの商船を襲撃、ホラントなどフランドル諸都市の反乱を扇動してブルゴーニュとの戦争準備を進めた。善良公も対抗措置としてイングランド領カレーを包囲したが失敗、ブリュージュ・ヘントも反乱を起こし足元が揺らぎ、イングランドとの貿易が中断された状況に危機感を抱き、1439年に休戦協定が結ばれ、1445年に通商協定も締結されイングランド・ブルゴーニュの友好関係は修復された。 フリーハンドを得た善良公は関心をネーデルラントへ向け、1443年にルクセンブルクを獲得、反乱を起こした都市の鎮圧に成功して領内の安全を確保、リエージュ司教領などの干渉も行い北へ領土を伸ばしていった。フランスはリッシュモンの下でイングランドからの領土奪還を推し進め、1436年にパリを取り戻したのを契機にイングランド領諸都市を次々と落としていき、1440年に貴族の反乱(プラグリーの乱)も鎮圧して軍事改革・強化を進めていった。イングランドはフランスの反撃に太刀打ち出来ず、国内で派閥抗争が長引き内部分裂し有効な手段が取れず、1450年にフォルミニーの戦いで大敗してノルマンディーを失い、1453年にカスティヨンの戦いにも敗れ、ギュイエンヌも奪われ敗戦を迎えることになる。 アラスの和約はどの国が1番得をしたか議論されているが、ブルゴーニュの外交の勝利とする意見があれば、ブルゴーニュをイングランドから引き離したフランスこそ勝者とする異論が出されている。善良公の目的についても一致せず、フランスの政治的立場を確保したいという解釈と、ネーデルラント進出で背後を固めるためフランスとの和約に応じたという解釈が研究者の間で出され対立している。
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