吉忠以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 00:56 UTC 版)
『寛永諸家系図伝』(以下『寛永系図』)によれば、始祖は松平市郎という人物で、その子の仁右衛門が母方の小栗に改めたとする。 『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)編纂時に小栗家から提出された家譜では、松平郷松平家と結び付けた主張をおこなっている。松平泰親の長男・松平信広の末裔で岩津城主であった松平信吉が、筒針城主小栗正重(常陸小栗氏)の妹との間に設けた子が一郎忠吉(のちにニ右衛門。『寛永系図』の「松平市郎」に相当)とする。これよりさき、信吉は松平親忠の長男松平親長を養子に迎え、家督と岩津城を譲っていた。忠吉が7歳の時に信吉が没したが、親長と忠吉の母との折り合いが悪く、忠吉とその母は小栗正重のもとへ寓居した。忠吉と松平遠江守の妹との間に生まれた子供を正重が養ったのが小栗吉忠(ニ右衛門)であるという。 この家伝について『寛政譜』は、『寛永系図』との齟齬(仁右衛門が母の小栗氏に改めていたとしていたにもかかわわらず、今回の呈譜では仁右衛門=ニ右衛門吉忠の母が松平氏と主張していることなど)を指摘、信吉の子の親長と親忠の子の岩津太郎親長を混同したのではないか、などと考証し、「今の家系疑はし」として本文では『寛永系図』の市郎から始まる系図を載せている。
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