右派活動家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 03:08 UTC 版)
「ディートリヒ・エッカート」の記事における「右派活動家」の解説
第一次世界大戦後、新聞『良いドイツ語で』を刊行し、アルフレート・ローゼンベルクとゴットフリート・フェーダーを編集員として勧誘した。エッカートはドイツ革命とヴェルサイユ条約を強く批判し、匕首伝説を信じドイツ社会民主党やユダヤ人の排除を訴えた。また、トゥーレ協会の会員としても活動していた。 1919年1月5日、アントン・ドレクスラー、フェーダー、カール・ハラーと共にドイツ労働者党を結成する。党はアドルフ・ヒトラーの台頭により勢力を拡大し、1920年2月には党名を国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に改称した。エッカートは12月に『フェルキッシャー・ベオバハター』を買収し党の機関紙にすると同時に党歌『ドイツよ、目覚めよ』を作詞した。 ヒトラーとは1919年に初めて会い、日記の中でヒトラーを「ドイツの栄光を取り戻す救世主」として期待を寄せる記述を残している。一方のヒトラーも、エッカートが著した反ユダヤ主義や民族主義について書かれた本のほとんどを読破するなど強い影響を受け、ナチ党の理念の確立に大きく貢献した。また、この頃にローゼンベルクをヒトラーに紹介し、1920年から1923年にかけて党のために精力的に活動した。 1923年11月9日、ヒトラーと共にミュンヘン一揆に参加した。一揆の失敗後は他のナチ党員と共に逮捕されランツベルク刑務所に収監されたが、病気が理由ですぐに釈放され、12月26日にベルヒテスガーデンでモルヒネ中毒による心臓発作で死去した。
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