反乱の拡大と章邯の反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 04:15 UTC 版)
「陳勝・呉広の乱」の記事における「反乱の拡大と章邯の反撃」の解説
「陳勝、蜂起す」。この噂が広まると、それまで秦の圧制に耐えていた各地の人民が郡守や県令を血祭にあげて陳勝に呼応した。勢いづいた陳勝は呉広を仮の王として諸将を統率させ西へ征かせるとともに、武臣に張耳・陳余をつけて趙の地を略定させ、鄧宗に九江郡を攻略させた。魏へは周巿が派遣された。 陳に周文(周章)という人物がいた。陳勝は、彼が軍事に練達していると聞きつけると、彼に将の印を与えて、楚軍を西進させて秦を討たせた。周文は徴兵しながら進軍し、函谷関に到るころには兵車1000乗、兵卒数十万の大兵団となり、かつて何人も破れなかった函谷関を抜く。 だが、楚軍が秦の都の咸陽付近まで迫って来た時、秦の将軍の章邯は反乱軍の勢いと秦軍の少なさから、始皇帝の陵墓で働いていた囚人20万人に武器を与え、これを楚軍に当てた。戦功を挙げれば罪が赦される囚人たちは決死の兵となり、楚軍はここに到って秦軍に敗れた。 周文は敗走後も曹陽に拠って秦を防いだが数カ月支えたのち陥落し、さらに澠池で秦軍を迎撃するが防ぎきれず、ついに自決する。この大敗によって楚軍は戦意を喪失し、ここから張楚はその勢いに翳りを見せ始める。 趙を平定した武臣は邯鄲に入城すると、独立して王を称した。陳勝は怒ったが、ここで趙が敵に回ることは致命的となるので、やむをえずこれを認めた。趙王となった武臣は韓広に命じて燕を平定させるが、韓広が燕の有力者たちに奉戴されて燕王となってしまったので、やむなく武臣もこれを認めた。また、斉では旧斉の王族である田儋が従弟の田栄・田横兄弟らと協力して立ち、魏でも周巿が旧魏の王族の魏咎を擁立して魏王とし、自身は宰相となった。
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