反乱の推移
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/28 07:12 UTC 版)
「ヴィエルコポルスカ蜂起 (1794年)」の記事における「反乱の推移」の解説
ヴィエルコポルスカの反乱軍はクヤヴィ地方(英語版)(波: Kujawy)を拠点とし、一応ユゼフ・ニェモイェフスキ(英語版)(Józef Niemojewski)が最高司令官となったが、実際には各地の部隊が各個独自行動をとっていた。反乱軍は8月20日に初めてプロイセン軍と衝突し、8月22日にはグニェズノを占領した。その直後、パヴェウ・スクジェフスキ(英語版)(Paweł Skórzewski)率いる一軍がコニン(英語版)(Konin)周辺を制圧した。この結果、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は、一時ワルシャワを包囲していた軍を撤退させざるを得なくなった。 またヤン・ヘンリク・ドンブロフスキ率いる一軍は10月2日にブィドゴシュチュを占領し、ポンメルン全土をほとんど抵抗を受けずに制圧した。ドンブロフスキはブィドゴシュチュで冬を越してからトルンに移動しようと考えていたが、マチェヨヴィツェの戦い(英語版)(波: bitwa pod Maciejowicami)でコシチュシュコが敗れ捕らえられたことを知ると、ヴィエルコポルスカを離れて中央ポーランドの戦線に加わった。機動力で優れるドンブロフスキ軍は鈍重なプロイセン軍を巧みにかわして包囲されずに済んだが、それまで彼が挙げてきた成果は僅か数か月でプロイセン軍に覆された。 ドンブロフスキはコシチュシュコの後継者トマシュ・ヴァヴジェツキ(英語版)(Tomasz Wawrzecki)に反乱拠点を中央ポーランドからプロイセン領ポーランドに移すよう説いたが、同意を得られなかった。1794年11月17日、中央ポーランドにおける最後のポーランド反乱部隊がラドシツェ(英語版)(Radoszyce)でロシア軍に捕らえられた。一方でヴィエルコポルスカでは、12月半ばまでゲリラ戦が展開されていた。靴屋出身ながらワルシャワ蜂起で英雄となりコシチュシュコ軍の大佐となっていたヤン・キリニスキ(英語版)(Jan Kiliński)は、ヴィエルコポルスカでポーランド反乱軍を再編しようとしたが、彼は間もなくプロイセン軍に捕縛され、ロシアに引き渡された。 反乱終結後、ドンブロフスキはロシア軍・プロイセン軍双方から勧誘されたが、これを断り海外亡命を選んだ。彼はフランスのナポレオンの元でポーランド軍団を組織し、ナポレオン戦争で活躍した。ニェモイェフスキもナポレオン軍に投じ、准将まで昇進した。
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