はかた‐にわか〔‐にはか〕【▽博多×俄】
博多俄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 14:19 UTC 版)
幕末にはすでに岡崎屋嘉平、馬場の宗七、市小路の吾平らが活躍。1879年(明治12年)には鬼若組が組織され、麩屋組、川丈組などが次々組織された。明治後期以降は初代博多淡海が活躍。大正以降は衰退するが、その芸は実子二代目博多淡海、また実子の三代目博多淡海(木村進)と受継がれた。また平田汲月は俄作家として大正・昭和と活躍した。また初代・二代目と親子で続いた生田徳兵衛は生田組と称して明治から昭和に活躍。二代目の孫は女優・生田悦子として活躍。また福岡藩黒田氏の御用商人で俄師でもあった十一代目帯屋治平の孫は戦後に放送作家などで活躍し日本放送作家協会九州支部長も務めた帯谷瑛之介である。 様式は「博多弁で会話」し「駄洒落で落ちを付けて話を纏める」もので、人数や台本によって「一人仁和加」や「掛合い仁和加」「段物仁和加」等の種類があるが、20世紀末から21世紀初頭にかけては1人で演じるショートコント型の「一口仁和加」が主流となっている。半面(目かづら)を付けて演じる。この半面は博多銘菓「二◯加煎餅(にわかせんぺい)」のモチーフにもなっている。伝統的には和紙製の「ぼてかづら」も着用するが、未着用で演じることも珍しくない。
※この「博多俄」の解説は、「俄」の解説の一部です。
「博多俄」を含む「俄」の記事については、「俄」の概要を参照ください。
博多俄と同じ種類の言葉
- 博多俄のページへのリンク