南北戦争初期の経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/01 20:27 UTC 版)
「ブラクストン・ブラッグ」の記事における「南北戦争初期の経歴」の解説
南北戦争が始まる前に、ブラッグはルイジアナ州民兵隊の大佐となり、1861年2月20日には民兵隊の少将に昇進した。4月16日までニューオーリンズ周辺の部隊を指揮したが、その任務は3月7日付けでアメリカ連合国の准将に移籍された。フロリダ州ペンサコラの部隊および西フロリダ方面軍を指揮し、9月12日には少将に昇進した。その指揮範囲はアラバマ州まで拡げられ、10月にはペンサコラ軍の指揮官となった。その業績は成功であり、友人のリチャード・テイラーと共に自隊を南軍の中でも最も訓練の行き届いた部隊にした。 ブラッグは自隊をともなってミシシッピ州コリンスに行き、既に集められていた南軍の規律の足りなさを改善することに関わった。シャイローの戦いでは1個軍団を率い、断片的な正面攻撃でホーネッツネストを襲った。南軍の指揮官アルバート・ジョンストン将軍が戦死した後で、P・G・T・ボーリガード将軍が指揮を引き継いだ。その日1862年4月6日、ブラッグは大将に昇進し、南軍の歴史の中でも7人しかいない大将の一人となり、ミシシッピ軍の指揮官を割り当てられた。翌日、南軍はコリンスまで撤退させられた。コリンスの包囲戦後、ボーリガードが病気のために戦線を離れたが、その出発をジェファーソン・デイヴィス大統領に報せることができず、許可無しに2週間不在だった。デイヴィスはボーリガードのコリンスでの行動がまずかったために代わりの者を探しており、ボーリガードが許可無しに戦線を離れたために口実ができた。ブラッグは1862年6月にテネシー軍の指揮官としてその後任に指名された。
※この「南北戦争初期の経歴」の解説は、「ブラクストン・ブラッグ」の解説の一部です。
「南北戦争初期の経歴」を含む「ブラクストン・ブラッグ」の記事については、「ブラクストン・ブラッグ」の概要を参照ください。
- 南北戦争初期の経歴のページへのリンク