南北戦争、1861-1864年とは? わかりやすく解説

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南北戦争、1861-1864年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/28 00:16 UTC 版)

ナイアガラ (蒸気フリゲート)」の記事における「南北戦争、1861-1864年」の解説

ナイアガラ直ち南部港湾封鎖作戦準備をし、5月10日にはチャールストン沖に到着した2日後にはリバプールからの封鎖突破船捕獲している。その夏の間はアラバマ州モービル湾で同様の任務についた9月22日ピケンズ砦(Fort Pickens)にてマッキーンメキシコ湾封鎖艦隊の司令長官任命された。ナイアガラペンサコーラのマックリー砦(Fort McRee)を防衛するため、南軍対峙し、11月22日にはワリントンに着いたこの間喫水線上を2回損傷している。1862年6月5日修理のためにボストン海軍工廠向かい6月16日任務解かれた。1863年10月14日戦列復帰1864年6月1日ニューヨーク出港し南軍戦闘艦監視のためにヨーロッパに向かう。6月26日アントワープ母港定め英国海峡フランス大西洋岸ビスケー湾哨戒した。8月15日にはポルトガル沖で南軍艦艇拿捕している。翌年2月から3月かけて、僚艦サクラメント号(USS Sacramentoと共にスペインフェロル沖で、南軍の装甲艦ストーンウオール号(CSS Stonewall)の出港阻止する任務についていたが、これには失敗しリスボンへの逃走許した。なお南北戦争終了後、ストーンウオール号は一旦米国海軍編入され後幕海軍売却され甲鉄」と命名されるが、戊辰戦争勃発により米国引渡し拒否結局明治政府買取、「東艦」として初期の帝国海軍一翼になったナイアガラヨーロッパ艦隊一員として哨戒任務につき、8月29日カディス出港9月20日ボストン戻った9月28日任務完了し1885年5月6日売却されるまで、そのままボストン海軍工廠にあった

※この「南北戦争、1861-1864年」の解説は、「ナイアガラ (蒸気フリゲート)」の解説の一部です。
「南北戦争、1861-1864年」を含む「ナイアガラ (蒸気フリゲート)」の記事については、「ナイアガラ (蒸気フリゲート)」の概要を参照ください。

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