南京国民政府での活動
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1937年(民国26年)に上海が日本軍により陥落したが、褚民誼は、中法国立工学院の事務に係り、そのまま上海に留まった。1939年(民国28年)5月、上海を秘密裏に訪問した汪兆銘の誘いに応じ、褚も親日政府樹立に動くことになった。同年8月、汪が上海で国民党第6回全国代表大会を開催する。褚は中央監察委員会常務委員、中央党部秘書長に選出された。 1940年(民国29年)3月、南京国民政府が成立すると、褚民誼は行政院副院長兼外交部部長に任命された。以後、日本との外交折衝を主に担当する。同年12月に、駐日大使となった。1941年(民国30年)10月、外交部長に復帰している。その後も外交事務を引き受け、後に昭和天皇から勲一等旭日大綬章を授与されている。南京国民政府では、特に汪兆銘・陳璧君に近い派閥である「公館派」の一員と目された。1944年(民国33年)11月に汪が死去すると、陳公博が代理主席となった。しかし、陳公博と褚民誼は不仲で対立が激しく、周仏海の斡旋が必要なほどであったとされる。 1945年(民国34年)7月、広東省長兼保安司令、広州綏靖主任に任命された。同年8月に日本が敗北すると、褚民誼は、蔣介石に対して従順な姿勢をとった。しかし、結局10月に広州で蔣の命により逮捕されてしまう。1946年(民国35年)4月、漢奸の罪により死刑を宣告され、同年8月23日、蘇州の監獄で処刑された。享年63。
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