医薬分業と旧制薬学専門学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:15 UTC 版)
「長井長義」の記事における「医薬分業と旧制薬学専門学校」の解説
当時の日本では、薬学はあくまで医学の一分野であるという認識だった。しかし明治薬学専門学校(現明治薬科大学)校長の恩田重信が医薬分業を主張し、ドイツ帰りの長井もこれに同調し、一部の反発を買うほど苦言と提言を強く主張した。 1923年(大正12年)の関東大震災では明治薬専が焼失してしまうが、長井は恩田を「財産や名誉の損失は取り返しがつくが、勇気を失ったら万事休す」というドイツのことわざで励ました。テレーゼの自発的な行動が元で、長井夫妻は明治薬専再建のための資金調達に飛び回ったが、これは当時としては画期的なことであった。 富山薬学専門学校(現 富山大学薬学部)の官立化に尽力した。これは副次的に熊本薬学専門学校(現 熊本大学薬学部)の官立化にもつながった。 長井の故郷である徳島にも、長井の進言で1922年(大正11年)、徳島高等工業学校応用化学科に製薬化学部が創設された。これは現在の徳島大学薬学部・大学院薬科学教育部で、ここには「長井記念ホール」がある 。 1929年(昭和4年)、感冒に起因する急性肺炎で逝去。墓は富士霊園にある。
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