医師としてのスタート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/08 02:11 UTC 版)
「アルトゥル・シュニッツラー」の記事における「医師としてのスタート」の解説
アルトゥル・シュニッツラーは、ユダヤ人でハンガリーの小さな町出身の咽喉科医ヨハン・シュニッツラーと、その妻のルイーゼ(ウィーンの医師フィリップ・マルクブライターの娘)の長男として、ウィーン第2区レオポルトシュタットのプラーター通り (Praterstraße) 16番地に生まれた。 1871年から1879年までギムナジウムに通い、1879年7月に優秀な成績でマトゥーラに合格。その後ウィーン大学で医学を学び、1885年5月30日医学博士号を取得した。なお、弟のユリウス・シュニッツラー(ドイツ語版)も医師となっている。 1885年から1888年までウィーン市総合病院の医員として勤務した後、1893年までウィーンのポリクリニック病院の咽喉科で父の助手として働くが、その頃からすでに彼は創作活動を行っていた。その始まりは、大学在学中の1880年、ミュンヘンの雑誌「フライエ・ラントボーテ」(Der freie Landbote) に掲載された『踊り子の恋の歌』(Liebeslied der Ballerine) であり、彼は引き続き、雑誌「ブラウエ・ドナウ」(Blaue Donau)や「モデルネ・ディヒトゥング」(Moderne Dichtung)、新聞「フランクフルター・ツァイトゥング」(Frankfurter Zeitung)、文芸雑誌「フライエ・ビューネ(ドイツ語版)」(Freie Bühne) といったメディアに詩や小説などを発表した。 彼はまた学問的刊行物として『機能的失声症および催眠と暗示によるその治療について』(1889年)も著しており、これは彼にとってほぼ唯一の医学書である。1886年から1893年までシュニッツラーは医学出版にかかわり、70本以上の寄稿をしているが、その多くは父の創刊した雑誌『国際臨床医学展望』(Internationale Klinische Rundschau) における、編集者名義による専門書への書評であった。
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