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ウィーン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/04/16 09:26 UTC 版)

(ウィーン市 から転送)

Collage von Wien.jpg
ウィーン
Wien
ウィーンの旗 ウィーンの紋章
(州旗) (州の紋章)
オーストリア国内におけるウィーンの位置
州都 (ウィーン)
最大の都市 -
州首相 ミヒャエル・ホイプルSPÖ
面積
 - うち陸面積
 - 水面積
414.89 km² (第9位)
395.49 km² (95,33 %)
19.40 km² (4,67 %)
人口
 - 総計
 - 人口密度
(2011年9月30日)
1,731,444 人 (第1位)
4,173 人/km²
与党 SPÖ, Grüne
前回選挙 2010年10月10日
次回選挙 2015年
連邦議会議席数 11
23
測地系 北緯48度7分-48度19分
東経16度11分-16度34分
最高点 ヘルマンスコーゲル (542 m)
最低点 ローバウ (151 m)
ISO 3166-2:AT AT-9
ウェブサイト [1]

ウィーンまたはヴィーン[1](標準: Wien, :Wean(ヴェアン),: Vienne(ヴィエンヌ), : Vienna(ヴィエナ)) は、オーストリア首都。人口は173万1444人(2011年9月30日)。都市単独で一つの連邦州であり、ヨーロッパ有数の世界都市である。位置は、北緯48度12分5秒、東経16度22分38秒。クラシック音楽が盛んで「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれる。第一次世界大戦まではオーストリア=ハンガリー帝国の首都としてドイツを除く中東欧の大部分に君臨し、さらに19世紀後半まではドイツ連邦神聖ローマ帝国を通じて形式上はドイツ民族全体の帝都でもあった。

目次

概要

ウィーンの位置 左のアルプス山脈と右のカルパティア山脈(図にはほとんど描かれていない)の間を流れるドナウ川のほとりにあるため、交通の要衝でもある
ウィーン市街の遠景 左に国際機関本部の集積地 (Vienna International Centre) があり、ドナウ川をはさんで赤い屋根の旧市街が広がる。南を向いて撮影

ローマ帝国の宿営地ウィンドボナ (Vindobona) をその起源とし、かつてヨーロッパの数カ国を支配したハプスブルク家オーストリア帝国の首都であった。マリア・テレジア女帝時代に栄えた市街は、フランツ・ヨーゼフ1世の治下で整備された。リングと呼ばれる環状道路は、ウィーンの近代化を実現するために、19世紀の後半にかつて旧市街を囲んでいた堀を埋め立てて造られたものである。シュテファン寺院や旧市街をふくむ歴史地区は、「ウィーン歴史地区」の名称で2001年ユネスコ世界遺産に登録された。ここには旧王宮(ホーフブルク、現在は大統領官邸や博物館、国立図書館などとして使用)・ウィーン国立歌劇場・ブルク劇場・自然史博物館・美術史博物館、南駅に近いベルヴェデーレ宮殿などが含まれる。

ウィーンは、そもそもの成り立ちが2つの道が交差するところに生まれた町であった。ドナウ川に沿ってヨーロッパを東西に横切る道と、バルト海イタリアを結ぶ南北の道(「琥珀街道」)である。そこはゲルマン系、スラヴ系マジャール系ラテン系のそれぞれの居住域の接点にあたり、歴史的にみても、上述のように、紀元前5世紀以降ケルト人の居住する小村であったところにローマ帝国の北の拠点が建設されたのが起源であった。オスマン帝国の隆盛時にはヨーロッパからみてアジアへの入り口にもあたっており、伝統的にも多彩な民族性を集約する都市として栄えた。

その地理上の位置は、かつて共産圏に属した東ドイツベルリン東欧スラヴ民族の国家チェコプラハよりも東であり、第二次世界大戦後の冷戦時代にあっても、国際政治上微妙な位置にあった。

また、都心から南南西方面に離れた場所には、かつてウィーン会議の舞台となったことで有名な世界遺産シェーンブルン宮殿がある。これは、レオポルト1世が狩猟用の別荘として建てたものを、マリア・テレジアが離宮として完成させたものである。

現在のウィーンは、国際機関の本部の集積地ともなっており、日本政府も在ウィーン国際機関日本政府代表部を置いている。ウィーンに本部を置いている機関は次の通り。

2012年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス人材文化政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第13位の都市と評価された[2]。欧州ではロンドンパリブリュッセルに次ぐ第4位。

歴史

ローマ時代

ローマ時代、ウィーンはちょうど帝国の北の境界にあたる位置にあり、恐らくケルト語源でウィンドボナ(bonaはケルト語で集落・町)と呼ばれる宿営地が置かれた。これがウィーンの地名の起源と言われている。

ハプスブルク家の帝都

18世紀のウィーン
地図

中世にもドナウ河沿いの交易地として発展したウィーンが本格的な発展期を迎えたのは、オーストリアを治めていたバーベンベルク家が1155年にクロスターノイブルクからウィーンに都を移したことに起因する。1221年、ウィーンは都市特権を獲得した。バーベンベルク家は13世紀半ばに断絶し、1278年よりオーストリア公となったハプスブルク家の支配下におかれた。14世紀、建設公と称されたルドルフ4世のもとで、ウィーンは大きな発展を遂げた。この時代にシュテファン寺院(シュテファン大聖堂)やウィーン大学が建てられている。やがてハプスブルク家は婚姻政策の成功により16世紀に入るとボヘミアハンガリーを初めとする多くの王国を相続し、ドイツ神聖ローマ帝国の帝位を独占。16世紀前半にはカール5世のもとヨーロッパ最大のドイツ系の帝国を築くに至る。一時はオスマン帝国による第一次ウィーン包囲(1529年)など、ヨーロッパ全体を震撼させる事件もあったが、ハプスブルク家のもとで帝都ウィーンでは華やかな貴族文化が栄えていた。1683年にもオスマン帝国による第二次ウィーン包囲を受けたが撃退、17世紀末からは旧市街の王宮ホーフブルクに加え、離宮シェーンブルン宮殿が郊外(現在は市内)に造営された。これが18世紀末から現在に至る「音楽の都ウィーン」の礎となった。18世紀末にはヨーゼフ2世によりウィーン総合病院が開設され、プラーター公園が一般市民に開放されるなど都市環境が改善されていった。

19世紀半ばに産業革命を迎えたウィーンは農村からの人口流入により急激な人口増加を経験した。1869年に63万人であった人口は、1910年には203万を数え、当時のヨーロッパではウィーンは、ロンドン、パリ、ベルリンと並ぶ都会であった。1873年にはウィーン万国博覧会も開催されている。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は自ら立案して大規模な都市改造を行い、市壁を撤去し環状の道路(リング)と置き換え、路面電車を導入するとともに、歴史主義的建造物やモニュメントを街路に面して配した。現在のウィーン旧市街の外観はこの改造によっている。

オーストリア=ハンガリー帝国多民族国家であり、支配民族であったドイツ人は帝国の人口5千万の25%あまりを占めるにすぎなかった。帝国各地からの人口流入により、ウィーンの街ではドイツ語ハンガリー語チェコ語ポーランド語イディッシュ語ルーマニア語はもちろんのこと、ロマ語イタリア語までヨーロッパのあらゆる言語を耳にすることができたと言われる。

帝国各地からあらゆる民族出身の才能が集まり、ウィーン文化はその絶頂期を迎えた。

第一次大戦と帝国の崩壊

1914年に始まった第一次世界大戦1918年にドイツ・オーストリア側の敗北をもって終戦した。ハプスブルク家の帝国は解体し、チェコスロバキアハンガリーユーゴスラビアポーランドなどが次々と独立、ウィーンは経済的困窮に追い込まれる。新しい共和国の首都となったウィーンでは社会主義系の市政が発足し、保守的な地方の農村部からは「赤いウィーン」と呼ばれて、両派の政治的確執は国政全体の不安定へとつながった。また、ほぼドイツ人だけの国となった新オーストリアで、東端に位置しなお濃厚な東欧色を残すウィーンは微妙な立場でもあった。このような時代をウィーンで過ごしたアドルフ・ヒトラーはやがてドイツで独裁者となり、やがてヒトラーは母国オーストリアをドイツに併合し(アンシュルス)、ウィーンは約700年ぶりに首都でなくなった。

永世中立国の首都として

ウィーン国際センター(国連諸機関の入るオフィスビル)

1945年、第二次世界大戦でナチスは崩壊し、ウィーンは米英仏ソ四ヶ国の共同占領下に置かれた。映画『第三の男』はこの時代のウィーンの雰囲気をよく伝えている。1955年にオーストリアは主権国家として独立を回復した。旧ハプスブルク帝国の継承国家のほとんどが共産圏に組み込まれる中で、オーストリアでは共産党は国民の支持を得られず、経済的には西側との関係を保ったまま永世中立国として歩むことになった。オーストリア人のクルト・ヴァルトハイム国際連合事務総長としてウィーンをニューヨークジュネーヴに次ぐ第3の国連都市にすることに成功した。ウィーンは数々の国際機関の所在地となった。しかし鉄のカーテンにより、かつての後背地であった東欧を失ったウィーンの人口は、ゆるやかに減少を続けた。人口100万人以上の大都市のうち、20世紀を通して人口が減少したのはウィーンだけである。

現代のウィーン

1989年のベルリンの壁崩壊は、中欧におけるウィーンの持つ価値を蘇らせた。150万人を切っていた人口は特に外国からの流入により再び増加傾向にあり、2035年ごろには再び200万人の大台を回復すると予想されている。これは2004年に中東欧8ヶ国がヨーロッパ連合に加盟したのに加えて、2007年にはルーマニアブルガリアが加盟、その後もクロアチアをはじめとするバルカン諸国の加盟が見込まれるからである。

ウィーンには中東欧の経済的中枢として多くの多国籍企業が進出するようになったが、旧共産圏諸国のインフラが整うにつれて、企業の拠点としてプラハブダペストなどとの競合も厳しくなっている。このため2005年に法人税などが引き下げられた。

ウィーン市は現在バイオテクノロジー産業の育成に注力しており、Vienna Biocenterなどを積極的に整備している。またウィーンに拠点を置く金融機関が活発な買収を通じて中東欧での業務を拡大しており、中東欧における金融の中心としての地位をワルシャワと競っている。 他方、観光も相変わらずウィーンの重要産業である。国際会議の開催件数では06年はパリを上回り世界1位であった。




  1. ^ 日本語表記では主に「ウィーン」が用いられるが、標準ドイツ語でのWの発音は [v] であり、「ヴィーン」の表記が近い。バイエルン・オーストリア語ではWean(ヴェアン、ドイツ語#方言を参照)と発音される。なお、漢字による当て字では維納と表記される。
  2. ^ 2012 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook (2012年4月公表)
  3. ^ プライスウォーターハウスクーパースによる都市のGDP


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