北条氏久とは? わかりやすく解説

北条氏久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/21 07:24 UTC 版)

 
北条氏久
時代 江戸時代後期
生誕 文化13年7月2日1816年7月26日[1]
死没 嘉永5年5月10日1852年6月27日
改名 彦五郎、彦之丞(幼名)、庸修(初名)、氏久
戒名 顕光院殿仁峯義賢大居士
墓所 東京都渋谷区広尾の祥雲寺
官位 従五位下相模
幕府 江戸幕府
河内狭山藩
氏族 戸田氏後北条氏
父母 父:戸田氏庸、養父:北条氏喬
兄弟 姉(細川利用室)、戸田氏正戸田庸達
堀田正義氏久、通之助、妹(青山幸哉室)、
戸田庸貞、妹(戸田氏有室)、
妹(大高喬度室)、妹(大高喬度継室)、
妹(戸田氏寿室)、戸田氏永、定之助、
芳之助、妹(戸田氏範室)
正室:北条氏喬の娘
養子:氏燕
テンプレートを表示

北条 氏久(ほうじょう うじひさ)は、河内狭山藩の第10代藩主。

生涯

文化13年(1816年)、美濃大垣藩主・戸田氏庸の四男として生まれる。初名は庸修(つねなが)[1]天保11年(1840年)12月、狭山藩の第9代藩主・北条氏喬婿養子となる。天保13年(1842年)1月21日、氏喬が隠居したため、家督を継ぐ。

嘉永2年(1849年)に農民を兵士に徴兵する農兵を創設した。その見返りとして苗字帯刀を常時許し、賃金もある程度支払うことを容認している。しかし、このような軍備拡大は小藩の狭山藩では負担が大きく、ただでさえ悪化していた財政をさらに逼迫し、倹約による財政再建も行なっている。

嘉永5年(1852年)3月24日、養子の氏燕に家督を譲って隠居し、直後の5月10日に死去した。享年37。

脚注

  1. ^ a b 大垣市史 上巻』p.533




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「北条氏久」の関連用語

北条氏久のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



北条氏久のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの北条氏久 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS