刑務所そして要塞として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 22:04 UTC 版)
「ドゥーン城」の記事における「刑務所そして要塞として」の解説
1607年、教役者でジェームズ4世の宗教政策に反対したジョン・マンロー・オブ・テイン(英語版)は、同僚の教役者と共にドゥーン城に投獄された。マンローはその後当時の城主の計略で城を脱出し、この城主はマンローらを逃がしたことで投獄されている。王党派だった初代モントローズ侯爵ジェームズ・グレアムは、清教徒革命の最中である1645年にこの城を占領した。1654年、オリバー・クロムウェルによるスコットランド侵攻に反対するグレンケルンの乱(英語版)中には、サー・マンゴ・マリー率いる王党派と、トバイアス・ブリッジ(英語版)少佐率いるクロムウェル支持派との間で、ドゥーン城を舞台とした小競り合いが起きている。1689年に起きた「麗しのダンディー」こと初代ダンディー子爵によるジャコバイトの乱の際には、国軍によって城が要塞化され修理も行われた(1715年に起きたジャコバイトの乱 (en) の際にも同じ事が行われている)。1745年のジャコバイトの乱 (en) の際には、ドゥーン城は「麗しのチャーリー王子」ことチャールズ・エドワード・ステュアートや、彼を支持するジャコバイト軍勢によって占拠された。1746年のフォールカークの戦い (Battle of Falkirk Muir) で捕らえられた国軍兵用の監獄としても使われた。台所上層の部屋に投獄された囚人たちの中には、ベッドシーツを結び付けてロープとし、窓から抜け出して脱獄したものもいる。逃亡者の中には作家のジョン・ホーム(英語版)や牧師のジョン・ウィザースプーンがおり、後者は後にアメリカ植民地へ渡ってアメリカ独立宣言に署名した。
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