党争の終結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 21:10 UTC 版)
しかし李宗閔が死去した会昌6年(846年)に、武宗が崩御。宣宗が宦官の馬元贄により擁立される。宣宗は李徳裕の専権を憎んでおり、李徳裕は再び地方へと送られ、それに代わったのが牛派の白敏中である。 翌年の大中元年(847年)に白敏中は李派を朝廷より一掃するが、大中2年(848年)に牛僧孺が死去、更に大中3年(849年)に李徳裕も死去。ここに党争は終結した。この間、牛党が勝てば李党は全て排除され、李党が勝てば逆が行われ、その度に政策は入れ替わり、国政に大きな混乱をもたらした。 この後の朝廷では官僚と宦官との対立が激しくなり、官僚間での党争どころではなくなる。更には乾符元年(874年)には黄巣の乱が勃発。この乱は何とか収束したものの中央朝廷の力は大幅に減退し、朝廷の内部で争うということ自体がかつてとは違い朱全忠ら藩鎮勢力の代理戦争となったのである。
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