倉橋部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/05 06:51 UTC 版)
倉橋部(くらはしべ)は日本の古代伴造氏族の一つである。「倉椅部」、「椋橋部」、「椋椅部」などとも作る。
- ^ 有姓の者として、『続日本後紀』に倉橋部直氏嗣の名が見え(承和15年4月壬寅条)、美濃国に倉橋部造氏の名が見える(「法華経玄賛巻第三奥書」の天平3年5月23日「倉橋部造麻呂書写法華経玄賛願文」)。
無姓の者としては、武蔵国に『万葉集』巻20に武蔵国の椋椅部の者が、『続日本後紀』にも椋橋部の者が見え(承和5年12月辛亥条)、信濃国に倉橋部広人(『続日本紀』神護景雲2年5月辛未条)が私稲6万束を出して百姓の負稲(負債)を償った功により終身の田租を免ぜられていて、大量の稲を蓄えていたことを物語る。また越前国に椋橋部(天平神護2年10月21日付「越前国司解」)が見える。また丹後国に椋橋部(天平勝宝元年12月19日付「丹後国司解」)の者が見え、加佐郡には椋橋郷があった。
[続きの解説]
「倉橋部」の続きの解説一覧
- 1 倉橋部とは
- 2 倉橋部の概要
- 倉橋部のページへのリンク