体制側政党へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 09:43 UTC 版)
中央党の党内機構は「助任司祭制(カプラノクラティー)」と称する寡頭制が取られており、党内民主主義はほとんど存在しないに等しかった。したがって中央党はドイツを民主化させるために闘うこともしなかったので、政府とカトリックの対立が終焉に向かうと自然と中央党と保守勢力は密接な関係を持つようになった。 1880年代から90年代前半にかけて中央党では同党の支持層である中間層や農民の声を反映して党指導部の交代が行われ、カトリック貴族や聖職者に代わってブルジョワが中央党議員団の中心となっていった。ブルジョワが中心となったことで中央党は利益政党の性格を強め、反対政党から体制側の政党へと変化していく。利益政党になるに従ってカトリック政党である必要性が薄くなり、中央党内では脱宗教論争も起こるようになった。 しかし産業化の進展とともに中央党内でも労働組合勢力が台頭し、中央党の農村保守的な要素は減退していき、マティアス・エルツベルガーら左派政治家の発言力が大きくなっていった。彼らは政府への過度の接近に反対し、政府の植民地政策に反対し、ドイツ社会民主党(SPD)とも良好な関係を持っていた。中央党指導部もこうした声を抑えきれなくなり、1907年にはベルンハルト・フォン・ビューロー宰相率いる政府との関係を絶った。続く宰相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク時代には保守党とともに「黒青ブロック」という与党連合を形成したが、1912年の選挙で社民党に大敗を喫した。
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