佐賀関の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 23:54 UTC 版)
中川秀成の客分与力であった田原親賢と宗像鎮続は大友勢に加わるために出奔した際に中川家の旗印を盗み出して石垣原の戦いに臨んだ。これを見た如水は家康に秀成が西軍についた旨を報告した。秀成は弁解をしたが疑いは解けず、清正に追討を命じた。清正は情勢を見定めるため、まず小西行長の宇土城攻撃を優先し、そこへ秀成は人質を送って更なる弁明を試みた。秀成は更に旗幟を鮮明にするため、西軍の太田一吉を討つために臼杵城攻撃を開始した。石垣原の戦いに敗れた親賢は中川家船奉行柴山重成を頼って今津留に落ち延びていた。秀成は柴山にも臼杵城攻撃を命じたため親賢も中川勢として同行し、家老の中川長祐らの軍勢と合流した。 両軍は10月3日に佐賀関で激突し、中川勢では家老中川平右衛門、田原親賢、柴山重祐(重成の養父)ら230人あまりが戦死し、負傷者も200人以上を出した。 太田一吉は関ヶ原の敗戦を知ると臼杵城を捨てて落ち延びた。こうして中川家では多くの犠牲を払ったが、家康から信用され大名として存続を許された。
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