七人衆体制の崩壊と永禄九年の政変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/09 03:35 UTC 版)
「畠山七人衆」の記事における「七人衆体制の崩壊と永禄九年の政変」の解説
義綱は、父・義続と共に筆頭であった温井総貞を暗殺し、権力の奪取を図った。温井氏とこれと親しい三宅氏は、加賀の一向衆と結びついて謀反を起す(弘治の内乱)。一時、苦戦を強いられるも義綱は内乱を鎮圧し、温井氏と三宅氏を追放して大名としての権力を掌握した。総貞の暗殺後は遊佐続光も帰参する。 義綱は重臣たちの権力を削ぎ、大名専制を確立する。こうして七人衆体制は終わりを迎えた。 義綱の統治の下、しばらくは安定した時代が続いたが、1566年に長続連・遊佐続光らによる武装蜂起が起き、義綱は父・義続と共に追放されてしまう(永禄九年の政変)。続連・続光らは、追放されていた温井・三宅両氏を再び迎え入れ、当主を傀儡とした七人衆のような重臣たちによる統治を再び始める。 この後、幼君を擁立した傀儡政権が続くことになるが、10代目・義慶及び11代目・義隆は短命であり、一説に遊佐らによって暗殺されたと言われる。
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