ラトルスネーク号の航海
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「トマス・ヘンリー・ハクスリー」の記事における「ラトルスネーク号の航海」の解説
その後ハクスリーは海軍に職を求めた。彼は、トレス海峡における測量の仕事のために出帆しようとしていたHMSラトルスネーク号の外科医のポストを得た。1846年12月3日にイギリスを発ったラトルスネークが南半球に到着するやいなや、ハクスリーは海の無脊椎動物の研究に従事した。彼はイギリスに彼の発見の詳細を送り始め、そして彼の論文 Medusae科の解剖学と類似について は1849年に Philosophycal Transactions において王立協会から出版された。 ハクスリーはMedusae、Hydroidおよびウミシバ族 (Sertularian) のポリープを同じグループにまとめた。これらは後に彼が "Hydrozoa" の名前を与えた綱(ヒドロ虫綱)を形成することになる。彼が発見した共通点は、綱のすべてのメンバーが中央の腔あるいは消化管を内包する2つの薄膜から構成されているということであった。これは現在では刺胞動物門 (Cnidaria) と呼ばれるものの特徴である。彼はこの特徴を、より高等な動物の胚の漿膜構造と粘膜構造に比較した。 ハクスリーの業績の価値は評価され、1850年にイギリスに戻った翌年に王立協会フェローフェローに選ばれた。1852年、26歳の若さで同協会の評議会議員に選出された。しかし、生涯の友人だったジョセフ・ダルトン・フッカーとジョン・ティンダルとの友情は変わらなかった。彼がラトルスネークの航海の間にしていた観察に取り組めるよう、海軍省は彼を名目上の外科医助手として雇った。こうして彼は、種々の重要な学術論文を書くことができるようになった。特に、ヨハネス・ペーター・ミュラーがその動物界における位置づけを行おうとして断念した尾虫類(オタマボヤ類)の分類の問題を解決したホヤ類の論文と、有頭軟体動物の形態学についての論文が有名である。 ハクスリーは海軍を辞め、1854年7月に王立鉱山学校(現:インペリアル・カレッジ・ロンドン)の講師になり、翌年には英国地質調査所の博物学者になった。この時期に属する彼の最も重要な研究は、1858年に王立協会で行われた脊椎動物の頭骨の理論に関するCroonian 講義であった。この中で彼は、以前ゲーテとローレンツ・オーケンが支持した、頭骨と脊柱が相同器官であるというリチャード・オーウェンの見解を却下した。後に作家となるハーバート・ジョージ・ウェルズは学生時代にハクスリーから生物学を学んでおり、特に進化論には生涯を通じて影響を受けることになった。
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