モンゴル部との争いの始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 07:11 UTC 版)
「タタル部」の記事における「モンゴル部との争いの始まり」の解説
モンゴル部のキヤト氏のカブル・カンは妻のカラルク(Qarālqū)の兄弟であるサイン・テキン(Sāīn Tīkīn)が病気になったので、これを治すためにタタル部族のチャルキル・ノドイ(Charqil Nūdūī)という名のカム(巫者、シャーマン)を招いた。しかし、その巫術もむなしくサイン・テキンが亡くなったので、サイン・テキンの一族はそのカムを追いかけて殺してしまう。これ以降モンゴル部族とタタル部族との間に敵対心が生まれ、多年にわたって慢性的に戦闘・略奪が行われるようになった。 モンゴルのアンバガイ・カンがブイル湖とコレン湖の間のウルシウン河のふもとに住むタタルのアイリウト・ビルウトという氏族に娘を与えるため、自ら娘を送りに行ったが、タタルの乣の民(ジュイン・イルゲン)によって捕えられ、金帝国の皇帝のもとへと連行されて処刑された。これにより、後を継いだクトラ・カンはアンバガイ・カンの仇をとるため、カダアン・タイシとともにタタルのコトン・バラガとジャリ・ブカの所へ攻め込んだ。一方、モンゴルのイェスゲイ・バアトルはタタルのテムジン・ウゲとコリ・ブカという二人の頭とその民を捕えた。折しもイェスゲイに長男が生まれたため、捕えた敵将にちなみ、「テムジン」と名付けた。これが後のチンギス・カンとなる。テムジンが九歳になった年、イェスゲイはのどが渇いていたので、近くのタタル部の宴会に潜り込み、飲み物を分けてもらった。しかし、テムジン・ウゲとコリ・ブカの怨みがあったタタル部民は飲み物に毒を仕込んでやり、イェスゲイを毒殺した。その後しばらくはモンゴル部内の分裂があって両者の争いは一時沈静化する。
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