モハメドとアラブの春
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 07:15 UTC 版)
「モハメド・ブアジジ」の記事における「モハメドとアラブの春」の解説
2010年12月17日、モハメドはいつものように大通りで野菜売りの露商を行っていた。モハメドは店の常設許可を役所や大統領官邸に求めていたが、回答は得られなかった。当日、野菜と友人から借りた秤を政府の女性職員に没収された。さらに女性は、彼の父親を侮辱し、彼自身のみすぼらしさをあざわらい、平手打ちを食らわせた。その後モハメドは役所に秤の返却を求めたが、追い返された。役所に払う賄賂がなかったため、解決に至らなかったと言われている。 正午ごろ、モハメドは没収されなかった野菜カートとガソリンの入ったポリタンクを手に、再び役所前まで来た。彼は再び陳情をしようとしたが、役所の敷地内に入ることさえ拒否された。そこで彼は役所前の通りの真ん中に出て、自分とカートにガソリンをかけ、ライターで火をつけ焼身自殺した。従兄弟のアリ・ブアジジは大勢の群集とともにそこにいたが、モハメドを止めることはできなかった。 18日午後、モハメドは搬送された病院で死亡した。 アリは事件が起こった直後の現場を画像に収め、インターネットに投稿した。画像は直後の騒ぎを収めた別の画像とともに全国に広がり、モハメドを「中東革命の英雄的殉教者」と見なす者、彼を模倣し後追い自殺をする抗議者が現れるなど社会的波紋が広がった。チュニジア全土に大規模な反政府デモが広がった結果、2011年1月14日に23年間大統領の座にあったザイン・アル=アービディーン・ベン=アリーが国外へ逃亡し、ジャスミン革命が成立した。 ジャスミン革命の成功により、民主化運動の波はエジプト、イエメン、リビア、バーレーン、アルジェリアなど中東及び北アフリカ諸国に波及し、アラブの春と呼ばれる運動となった。
※この「モハメドとアラブの春」の解説は、「モハメド・ブアジジ」の解説の一部です。
「モハメドとアラブの春」を含む「モハメド・ブアジジ」の記事については、「モハメド・ブアジジ」の概要を参照ください。
- モハメドとアラブの春のページへのリンク