メジャー昇格後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/14 21:32 UTC 版)
「ポール・スプリットオフ」の記事における「メジャー昇格後」の解説
1971年のシーズンはAAA級のオマハ・ロイヤルズでのスタートとなったが、開幕8試合で5勝2敗・防御率1.48の成績をあげると、再びメジャーからお呼びが掛かる。そのシーズンは最後までカンザスシティに留まり、8勝9敗・防御率2.68の成績を残した。 その後はカンザスシティのローテーションに定着し、1973年には20勝11敗・防御率3.98と現役生活で唯一となる20勝をあげた。1973年4月10日、カウフマン・スタジアム(当時はロイヤルズ・スタジアムと呼ばれていた)で開幕投手を務め、テキサス・レンジャーズに12対1と快勝した。チームはスプリットオフのメジャー昇格後5シーズン中3シーズン迄もがオークランド・アスレチックスの後塵を拝し2位に甘んじていたが、1976年にはアメリカンリーグ西地区チャンピオンに浮上した。 カンザスシティは1976年から1978年まで3年連続でアメリカンリーグのリーグチャンピオンシップシリーズでニューヨーク・ヤンキースと対戦し、3回とも苦杯を嘗める結果に終った。スプリットオフはこの間ヤンキース相手に5回登板し、2勝0敗・防御率2.84という成績を残した。次の1979年は両チームともプレーオフ進出を逃し、翌1980年、ロイヤルズとヤンキースは再びアメリカンリーグ・チャンピオンシップシリーズでポストシーズンの覇を競う事となった。ロイヤルズはシリーズを3勝0敗で圧勝した。スプリットオフはシリーズ制覇を決定付ける第3試合に先発し、チームは勝利を収めたが彼自身は勝利投手の権利は得られなかった。続くワールドシリーズでは、ロイヤルズはフィラデルフィア・フィリーズに2勝4敗で破れた。スプリットオフは最後の6戦目のみに3番手として登板し勝敗はつかなかった。 常にスティーブ・バスビー(英語版)、デニス・レナード、ラリー・グラ(英語版)といったチームメイトたちの陰に隠れ、オールスターゲームとも無縁であったが、堅実で選手生命の長かったスプリットオフは彼らより多くの勝利を積み重ね、ロイヤルズでの15年間で通算166勝を挙げた。 ロイヤルズが多くの実力ある若いピッチャーを抱えるようになった中、衰えの隠せなくなったスプリットオフは引退する。最後の登板は1984年6月26日であった。
※この「メジャー昇格後」の解説は、「ポール・スプリットオフ」の解説の一部です。
「メジャー昇格後」を含む「ポール・スプリットオフ」の記事については、「ポール・スプリットオフ」の概要を参照ください。
- メジャー昇格後のページへのリンク