マルティン1世_(アラゴン王)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > マルティン1世_(アラゴン王)の意味・解説 

マルティン1世 (アラゴン王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/23 09:25 UTC 版)

マルティン1世 / マルティー1世
Martin I / Martí I
アラゴン国王
ポブレー修道院にあるマルティン1世像
在位 アラゴン王・マヨルカ王:1396年 - 1410年
シチリア王:1409年 - 1410年
別号 マヨルカ国王
シチリア国王

出生 (1356-07-29) 1356年7月29日
カタルーニャ君主国ジローナ
死去 (1410-05-31) 1410年5月31日(53歳没)
カタルーニャ君主国バルセロナ
埋葬 カタルーニャ君主国ポブレー修道院
配偶者 マリア・デ・ルナ
  マルガリータ・デ・プラデス
子女 シチリア王マルティーノ1世
家名 バルセロナ家
王朝 バルセロナ朝
父親 アラゴン王ペドロ4世
母親 レオノール・デ・シシリア
テンプレートを表示

マルティン1世西:Martin I, 1356年7月29日 - 1410年5月31日)は、アラゴン王、バレンシア王、およびバルセロナ伯(在位:1396年 - 1410年)。カタルーニャ語名ではマルティー1世(Martí I)。また、晩年にシチリア王位にもついた(マルティーノ2世:Martino II)、在位:1409年 - 1410年)。アラゴン王ペドロ4世と3番目の王妃レオノール・デ・シシリア(シチリア王ピエトロ2世の娘)の次男。同名の息子に対して老マルティン西:Martín el Viejo, :Martino il Vecchio)と呼ばれる。またユマニスト王(西:el Humano, 伊:l'Umanista)と呼ばれる。

生涯

1396年、兄フアン1世が男子を残さずに死去すると、アラゴン王位を継承した。

1373年に結婚した王妃マリア・デ・ルナとの間の息子マルティン(若マルティン)はシチリア王マルティーノ1世となったが、1409年にマルティーノ1世が嗣子なしに死去すると、マルティーノ2世として息子の王位を継承した。

翌1410年には自身も嗣子なしに死去し、後継者も定めていなかったため、マルティン1世の君主位の継承者が定まるまでには2年を要した。1412年にカスペの妥協で、アラゴン、バレンシア、カタルーニャ、シチリアなどの君主位は、妹レオノールカスティーリャフアン1世の子であるフェルナンド1世が継承した。なお、死因については消化不良 (en及び笑い死にとされる[1][2]

脚注

  1. ^ Norris, Paul N.. “Morris.pdf Patronage and Piety”. Mirator Lokakuu. 2011年5月18日閲覧。[リンク切れ]
  2. ^ John Doran, The History of Court Fools (Boston: Francis A. Niccolls & Co., 1858), 377-378.
先代
フアン1世
アラゴン王
バルセロナ伯
バレンシア王
マヨルカ王
1396年 - 1410年
次代
フェルナンド1世
先代
マルティーノ1世
シチリア王
1409年 - 1410年
次代
フェルディナンド1世



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「マルティン1世_(アラゴン王)」の関連用語

マルティン1世_(アラゴン王)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



マルティン1世_(アラゴン王)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのマルティン1世 (アラゴン王) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS