バルセロナ家
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バルセロナ家(カタルーニャ語: Casal de Barcelona、イタリア語: Casa di Barcellona、カスティーリャ語: Casa de Barcelona)は、アラゴン王国およびカタルーニャの君主の家系として中世に興った南ヨーロッパの王家。アラゴン家(カタルーニャ語: Casal d'Aragó、イタリア語: Casa d'Aragona、アラゴン語: Casa d'Aragón、カスティーリャ語: Casa de Aragón)とも呼ばれるが、この呼称は後継王朝となったアラゴン系トラスタマラ家や、ナポリ王国の王家となったその分枝にも用いられる場合がある。12世紀から15世紀初めまでの間にこの家系の支配が及んだ地域は、現在のスペイン東部、フランス南部、イタリア南部にまたがる。
- 1 バルセロナ家とは
- 2 バルセロナ家の概要
- 3 概要
- 4 系図
- 5 脚注
バルセロナ家(878年から1162年)
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「バルセロナ伯」の記事における「バルセロナ家(878年から1162年)」の解説
名肖像治世説明ギフレー1世(スペイン語版)(Guifré I)多毛伯 (el Pelós) 878年 - 897年 ギフレー・ダリアー伯の子。自身の子孫による世襲制を確立。 ギフレー2世ボレイ(スペイン語版)(Guifré II Borrell) 897年 - 911年 ギフレー多毛伯の子 スニェー1世(スペイン語版) 911年 - 947年 ギフレー2世の弟。修道院へ引退する ボレイ2世(スペイン語版) 947年 - 992年 スニェー1世の子ミロー1世と共同統治(947年 - 966年)、ラモン・ボレイと共同統治(988年 - 992年)、ウルジェイ伯(948年 - 992年)。サラセン人との戦いで西フランク王ロテールへ支援を依頼したが不成功に終わり、987年にユーグ・カペーをフランス王として承認するのを拒絶した。 ミロー1世(スペイン語版) 947年 - 966年 スニェー2世の子、ボレイ2世と共同統治。 ラモン・ボレイ(スペイン語版) 988年 - 1018年 ボレイ2世の子、父王とともに共同統治(988年 - 992年)。 バランゲー・ラモン1世(スペイン語版)背曲がり伯 (el Corbat) 1018年 - 1035年 ラモン・ボレイの子。母親であるカルカソンヌ伯女エルメシンダが摂政を務め、彼はナバーラ王サンチョ大王の宗主権を認めることを強いられた。 ラモン・バランゲー1世(スペイン語版)老伯 (el Vell) 1035年 - 1076年 バランゲー・ラモン1世の子 ラモン・バランゲー2世(スペイン語版)糸くず頭伯 (el Cap d'Estopes) 1076年 - 1082年 ラモン・バランゲー1世の子、双子の兄弟であるバランゲー・ラモン2世と共同統治。 バランゲー・ラモン2世(スペイン語版)兄弟殺し伯 (el Fratricida) 1076年 - 1097年 ラモン・バランゲー1世の子、双子の兄弟であるラモン・バランゲー2世と共同統治(1076年 - 1082年)。甥であるラモン・バランゲー3世と共同統治(1082年 - 1097年) ラモン・バランゲー3世(スペイン語版)大伯 (el Gran) 1082年 - 1131年 ラモン・バランゲー2世の子 ラモン・バランゲー4世聖伯 (el Sant) 1131年 - 1162年 ラモン・バランゲー3世の子。1137年、アラゴン王女ペトロニーラと婚約、1150年に結婚。
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