マラーターとの争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/21 10:16 UTC 版)
「ナジーブ・ハーン」の記事における「マラーターとの争い」の解説
アフガン軍がデリーを占拠したとの報がマラーター王国にもたらされると、マラーター王国宰相バーラージー・バージー・ラーオは弟ラグナート・ラーオをデリーに向けて派遣した。ラグナート・ラーオの軍勢は行軍の過程で大軍となり、8月にはデリーに迫り、宰相ガーズィー・ウッディーン・ハーンもこれに味方した。 8月11日、ナジーブ・ハーンの軍勢はラグナート・ラーオの軍勢と対決した(デリーの戦い)。数の少なかったローヒラー軍は敗北し、ナジーブ・ハーンはデリーから撤退した。この際、マルハール・ラーオ・ホールカルに身代金50万ルピーを払って身の安全を確保した。 1758年3月、ラグナート・ラーオはパンジャーブのラホールへと兵を進め、シク教徒の援助も得て、4月20日に ラホールを奪い(ラホールの戦い)、アフマド・シャーの息子ティムール・ミールザーを追い払った。王国軍にはシンディア家やホールカル家の軍勢も加わり、同月28日にはアトックを(アトックの戦い)、さらに5月8日にはペシャーワルを占領した(ペシャーワルの戦い)。 そして、マラーター軍がパンジャーブ一帯を占領したのち、同月にラグナート・ラーオはラホールからプネーへと帰還した。
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マラーターとの争い
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「ニザーム・アリー・ハーン」の記事における「マラーターとの争い」の解説
1761年1月14日の第三次パーニーパトの戦いでマラーター同盟軍が大敗し、マラーター王国の宰相バーラージー・バージー・ラーオはそのショックで死亡し、マーダヴ・ラーオが宰相となったが、叔父ラグナート・ラーオが宰相位の継承権を主張するようになった。宰相マーダヴ・ラーオとラグナート・ラーオの不和は続き、1762年8月22日にラグナート・ラーオがプネーからヴァドガーオンに去って内乱が始まった。 ニザーム王国はマーダヴ・ラーオとラグナート・ラーオの争いに介入しラグナート・ラーオに援助を受けたが、マーダヴ・ラーオがこの内乱における戦いに勝利し、同年11月12日にラグナート・ラーオは降伏した。 ニザーム王国はラグナート・ラーオの降伏後、宰相府の領土に攻め入り、マーダヴ・ラーオは事態の深刻さを見て、1763年3月7日にニザーム王国への遠征を行った。 そして、同年8月10日にニザーム軍はマーダヴ・ラーオの軍にアウランガーバード近郊に破れた。のち、ニザーム王国はマラーター王国に82ラク(820万ルピー)を生み出すデカンの地域を割譲し、マーダヴ・ラーオはプネーに帰還した。 また、それまでニザーム王国の首都はアウランガーバードであったが、同年にニザーム・アリー・ハーンはハイダラーバードへ遷都した。ただし、遷都したのは1752年、兄のサラーバト・ジャングの治世とする場合もある。
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