ヘルムート・コールとの関係
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「フランツ・ヨーゼフ・シュトラウス」の記事における「ヘルムート・コールとの関係」の解説
国防相辞任後、2年間インスブルック大学で財政学を学ぶ。1966年、クルト・ゲオルク・キージンガーが、CDU とドイツ社会民主党 (SPD) の大連立政権の樹立に成功すると、シュトラウスは財務大臣として入閣した。シュトラウスは、SPD のカール・シラー(ドイツ語版)経済相とともに景気対策に辣腕を振るった。シュトラウスとシラーは風刺漫画のモデルにもなり、19世紀ドイツの風刺漫画家ヴィルヘルム・ブッシュの作品 Plisch und Plum をもじった作品は有名になった。 キージンガー内閣は SPD の離反によって3年で終わり、1969年にヴィリー・ブラントを首班とする SPD・FDP の連立政権が成立すると、シュトラウスはこの連立政権およびブラントの東方外交に対する最も声望のある批判者の一人となった。1975年、中華人民共和国を訪問し毛沢東と会談するが、これは一大センセーションを巻き起こした。1976年にヘルムート・コールが CDU 党首として CDU・CSU の首相候補となり連邦議会で敗北すると、シュトラウスは CDU との連携を一時的に解消する。その後、コールとの協議で両党の協力関係を復活させ、1980年総選挙では強力な自薦でコールの承認を取り付けた上で CDU・CSU の統一首相候補として立候補するが、SPD のヘルムート・シュミット首相に敗れた。 シュトラウスはコールに対しては、そのリーダーシップを批判し続けた。個人的に悪感情を抱いていたわけではなかったが、シュトラウスの言動はコールにとっては耳の痛いものでもあった。
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