プレー山の災害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/07 16:35 UTC 版)
「カルステン・ボルクグレヴィンク」の記事における「プレー山の災害」の解説
1902年夏、アメリカの地理学協会からカリブ海に送られた3人の地理学者の1人となった。それはフランス領カリブ海のマルティニーク島で起きたプレー山の破壊的噴火の影響を報告するためだった。1902年5月におきたその噴火はサン・ピエールの町を破壊し、多くの人命を奪った。ボルクグレヴィンクは噴火活動がほとんど静まっていた6月に島を訪れ、山は「完全に静謐」と判断し、島人はその恐慌状態から快復していた。しかし、サン・ピエールにもう一度人が住めるとは思わなかった。この山の麓で通り過ぎたばかりの地面から蒸気が噴出したのを辛うじてかわし、「もしそれが我々の誰かに当たっていたら、我々は火傷で死んでいたことだろう」と報告した。その後ワシントンD.C.の地理学協会に報告書を提出した。
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