パクモドゥ派の衰退とリンプンパ政権とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > パクモドゥ派の衰退とリンプンパ政権の意味・解説 

パクモドゥ派の衰退とリンプンパ政権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 07:28 UTC 版)

パクモドゥパ政権」の記事における「パクモドゥ派の衰退とリンプンパ政権」の解説

1420年代、タクパ・ギェルツェンの次男サンギェ・ギェルツェンはリンプン家の娘と結婚した。タクパ・ギェルツェンが死亡する後継者争い起きリンプン家の支援受けたサンギェ・ギェルツェンが1432年6代目パクモドゥ派の長に即位した。しかし翌1433年には罷免されリンプン家の妻との長男タクパ・ジュンネがデンサ・ティル寺院から戻って7代目として即位したリンプン家はチベット中西部ツァン支配しシガツェ東部リンプン首都とした。 一方パクモドゥ派本山デンサ・ティル寺院政界とは別に僧正位が支配していたが、1444年僧正位の僧が死ぬとこれを空位にし、リンプン家がネドンをも支配したパクモドゥ派長の領土ラサ周辺ウーのみとなった1480年代ラサゲルク派カルマ派が対立して寺院焼き打ちする事件が起こる。これを機会リンプン家の長トンユ・ドルジェはカルマ派の摂政シャマル派と結び、ウー侵攻しパクモドゥ派の長クンガ・レクパは首都ネドンから追放された。トンユ・ドルジェはチベット支配するうになるが、1506年に彼が死ぬとネドン無政府状態となった1565年にはリンプン家の行政官ツェテン・ドルジェツァントェ王としてシガツェ中心としてツァン・デパを支配しリンプン家のチベット支配終わった。なお、その後チベットで争い続きダライ・ラマ5世17世紀支配体制確立するまで安定した平穏訪れなかった。

※この「パクモドゥ派の衰退とリンプンパ政権」の解説は、「パクモドゥパ政権」の解説の一部です。
「パクモドゥ派の衰退とリンプンパ政権」を含む「パクモドゥパ政権」の記事については、「パクモドゥパ政権」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「パクモドゥ派の衰退とリンプンパ政権」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「パクモドゥ派の衰退とリンプンパ政権」の関連用語

パクモドゥ派の衰退とリンプンパ政権のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



パクモドゥ派の衰退とリンプンパ政権のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのパクモドゥパ政権 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS