ニザーム王国との戦いと講和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/13 19:49 UTC 版)
「バーラージー・バージー・ラーオ」の記事における「ニザーム王国との戦いと講和」の解説
1748年5月、ニザーム王国のアーサフ・ジャーが死亡すると、息子のナーシル・ジャングと孫のムザッファル・ジャングとの争いが起こった。ナーシル・ジャングとムザッファル・ジャングは戦死し、後を継いだのはサラーバト・ジャングだった。 即位後、サラーバト・ジャングはマラーター王国と戦い続けたが、次第に劣勢となってしまい、1752年1月7日に講和を結んだ。それによると、ニザーム王国はベラール地方西半分およびハーンデーシュ地方をマラーター王国に割譲し、なおかつナーシク城やトリンバク城も引き渡すことが決められた。 1760年2月3日、マラーター王国軍はニザーム王国軍をウドギルで敗り(ウドギルの戦い)、年620万ルピーにも歳入を生み出すデカンの広大な地域を割譲により得た。 なお、このとき定められたマラーター王国とニザーム王国との国境線は維持され、そのままイギリスとニザーム藩王国との国境線となった。
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