ナスル朝
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ナスル朝(ナスルちょう、アラビア語: بنو نصر(Banū Naṣr)、スペイン語: La dinastía Nazarí、またはLa dinastía nasrí、ナスリー朝)は、イベリア半島最南部に13世紀から15世紀末まで存在していたイスラム王朝。1492年、この王朝がスペイン帝国に征服されたことで、キリスト教勢力によるレコンキスタ(再征服運動)が完了した。
注釈
- ^ 預言者ムハンマドの教友の後継者とも[3]、マディーナのハズラジュ族の後裔ともいわれる[4]。
- ^ ムハンマド1世の保有する兵力では、ハエン一帯まで含めた防衛は不可能であった[10]。
- ^ アラブのキンダ族の出自と称していた[12]。
- ^ 「代官」とも訳される[10]。
- ^ 信仰と自治権を認められ農村あるいは一部都市に残留を認められたムスリム[13]。
- ^ 余部 (1992)、p.325 では、ムルシアに独力でアシキールーラ家を差し向け占領したとされる。
- ^ アラゴン王国への反乱の波及を恐れたジャウマ1世により支援が行なわれた[13]。
- ^ アルフォンソ10世とその子サンチョとの対立があった[15]。
- ^ この侵攻はスペインに対する領土的野心によるものではなく、ジハードと唱え王朝の正統性を自国のイスラーム指導者層に訴えることが目的であった[16]。
- ^ この侵攻を行なったマリーン朝アブー・アルハサン・アリー王の後アブー・イナーン・ファーリス王末期からマリーン朝は内乱が続き、衰退していった[20]。
- ^ ユースフ4世が王となる際に、カスティーリャ王フアン2世の支援を受けた[25]。
- ^ a b 従来ムハンマド12世(ボアブディル)とされてきた世数は、新たなアラビア語史料の公刊により訂正されなければならないとされる[1]。
- ^ カトリック両王はムハンマド11世を正統政権とし、1483年に休戦協定を結んでいる[31]。
- ^ この時の協定では、ムスリムに対し、残留する者には信仰と財産の保全が許され、イベリア半島から退去する者にはその財産処分の自由が与えられた[33]。
- ^ スペイン語でアルプハーラス。シエラ・ネバダ山脈と地中海の間に挟まれた山岳地帯[36]。
- ^ ナスル朝の領域はカスティーリャ王国組み込まれた[39]。
- ^ 成立過程が似ているムラービト朝とムワッヒド朝の宗教理念はまったく異なり、ムラービト朝では正統的マーリク派法学を理念としたのに対し、ムワッヒド朝ではマーリク法学からすると異端とされるようなザーヒル派法学、哲学、スーフィズムなどの要素をとりまぜた独自のタウヒード神学を理念とした[42]。
- ^ 14世紀のナスル朝で製作された紙製の写本が存在し、この地域での紙製写本としては早い時期の作例となっている[55]。
出典
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- ^ ヒッティ (1983)、p.397
ナスル朝
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1232年、アンダルスの支配者の一人、ムハンマド・イブン・ユースフ・イブン・ナスル(アル・アフマル)は王を名乗り、1238年にグラナダに王国(ナスル朝)を建国した(ムハンマド1世)。1246年、ムハンマド1世はフェルナンド3世と条約を結び、カスティーリャに臣従して貢納する代わりに、グラナダ、マラガ、アルメリアを保有することを許された。 ナスル朝グラナダ王国は、イベリア半島における最後のイスラム王朝として約250年間存続し、経済・文化が繁栄した。アルハンブラ宮殿は、ナスル朝時代に建てられたもので、イスラム建築の傑作と評価される。しかし、15世紀末にカスティーリャ王国とアラゴン王国が連合王国となると、ナスル朝支配地への征服が始まり、1492年1月2日にグラナダが降伏してナスル朝は滅亡した。
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