ドレンテ-フローニンゲン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/24 23:11 UTC 版)
「ドレンテ十字軍」の記事における「ドレンテ-フローニンゲン戦争」の解説
1225年11月に当時のケルン大司教であるエンゲルベルトゥス(英語版) が暗殺されて間もなく、1225年末あるいは1226年初頭にクーフォルデンのラドルフ(英語版)率いるドレンテ人たちはフローニンゲンに侵攻し、この地の城伯であるエグベルトらに対し先手を打って進軍した。エグベルトはユトレヒト司教リッペのオットー2世(英語版)と同盟を結んでおり、またフローニンゲン市で最も経済的影響力があったゲルキンゲン家もエグベルトに協力した。しかしこの戦争の大義名分をラドルフらは有しておらず、ラドルフはゲルキンゲン家の肩を持つことでいわばフローニンゲン市における内戦状態を名分にして戦争を引き起こそうとした。 ユトレヒト司教オットー2世は両者に対して戦闘を止めるよう促し、フローニンゲンまで出向いて平和的解決をするよう手配を整えようとしたものの、結局破棄される。司教オットーは再三休戦に向けた要求を伝え、自身の教区・領地であるユトレヒトに戻って軍を招集した。司教オットーがフローニンゲンに不在の間、エグベルトはフローニンゲン市の南東に位置するグリメン(英語版)村に防衛拠点を敷いた。ラドルフはこの行動をフローニンゲン側の挑発と認識したが、エグベルトはなんとしてでも自身のフローニンゲンにおける統治権を守ろうとグリメン村を要塞化したのだった。 ドレンテ軍は要塞化されたグリメンに攻撃を仕掛け要塞を破壊し多くの捕虜を取ったため、エグベルトはフリジアまで撤退せざるを得なかった。エグベルトはフリジアにてフリース人部隊を招集しドレンテ人に攻略されたフローニンゲンまで進軍した。その後激しい戦闘の末、エグベルトはフローニンゲンを奪還し、ドレンテ人らを撤退に追い込んだ。 司教オットーはクーバーデンの南西に位置する街オメン(英語版)にて軍を招集した。司教オットーはかつて第5回十字軍に参加したことがあるため、なんとかして多くの手練れな騎士たちを自身の旗下に呼び集めることが出来た。その騎士の中には自身の弟リッペのハーマン2世(英語版)が派遣した騎士や、ケルン大司教ヘンリー1世(英語版)が派遣した騎士などがいた。攻城のための道具や食料などをフェヒト川(英語版)を通じて運搬するとともに司教オットーの軍勢はクーバーデンに向けて進軍した。 1227年6月27日、クーバーデンから6マイルの距離にある湿地帯にて司教オットー率いる司教軍とラドルフ率いる反乱軍が出会い、戦闘が始まった(アンの戦い(英語版))。司教オットーは旗下の騎士たちと共に討ち死にした。破れ去った司教軍はユトレヒトまで撤退した。このことを記した歴史書 Deeds of the Bishopsには、アンの地での戦いが新たな緊張とより緊迫した戦争を起こしてしまったとある。
※この「ドレンテ-フローニンゲン戦争」の解説は、「ドレンテ十字軍」の解説の一部です。
「ドレンテ-フローニンゲン戦争」を含む「ドレンテ十字軍」の記事については、「ドレンテ十字軍」の概要を参照ください。
- ドレンテ-フローニンゲン戦争のページへのリンク