ドリュラエウムの戦い
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ドリュラエウムの戦い(ドリュラエウムのたたかい、Battle of Dorylaeum)は第1回十字軍の主要な戦闘の一つ。1097年7月1日、アナトリア半島北西部のドリュラエウム(現在のエスキシェヒール近郊)で、行軍中の十字軍をルーム・セルジューク朝の騎兵が襲ったが、十字軍はこれを撃退することに成功した。
- ^ a b c d John France, The Crusades And The Expansion Of Catholic Christendom, 1000-1714, p. 71 "[...]その結果、ボエモンやノルマンディーのロベール、ブロワのエティエンヌらの20,000人ほどの前衛と、30,000人ほどの本隊の間に5キロメートルほどの間が空くことになった。彼らはクルチ・アルスラーンの接近に気づいていた。彼はニカイアで破れて逃れた後、新たな味方であるダニシュメンドのトルコ人を含めて6,000人から7,000人ほどの騎兵を連れて戻ってきたのだった。"
- ^ a b Bennett, The Hutchinson Dictionary of Ancient & Medieval Warfare, p. 103 "1097年のニカイア攻囲戦の成功に続き、十字軍は糧秣のために二つの隊に分かれた。ボエモン率いる前衛はボジュユク(Bozüyük)で襲撃を受けた。クルチ・アルスラーンは7,000人から8,000人のセルジューク弓騎兵で待ち伏せを行い、十字軍を大混乱に陥れたのだった。"
- 1 ドリュラエウムの戦いとは
- 2 ドリュラエウムの戦いの概要
- 3 その後
ドリュラエウムの戦い
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「第1回十字軍」の記事における「ドリュラエウムの戦い」の解説
詳細は「ドリュラエウムの戦い」を参照 十字軍諸隊は、案内役の東ローマ帝国将軍タティキオス(Tatikios)の兵に伴われてコンヤへ向かう途中ドリュラエウムにいたが、その道中ボエモンの部隊がクルチ・アルスラーン1世とダニシュメンドの連合軍の急襲を受けた。他の部隊はボエモンを救出し、ドリュラエウムで戦闘状態に入った。これをドリュラエウムの戦いという。この戦いにおいてゴドフロワ・ド・ブイヨンはセルジューク軍の包囲を受けて窮地に陥ったが、教皇使節アデマールが軍勢を率いて救援に駆けつけたため救われた。セルジューク軍は、次々現れる援軍の前に、衆寡敵せず逃走した。アデマールがセルジューク軍を撃破したことで、十字軍はアンティオキア目指してアナトリアを侵攻できるようになった。 アナトリアでの進軍は十字軍将兵にとって困難なものとなった。十字軍は略奪によって物資を得たが、夏の暑さと水や食料の不足から多くの兵が倒れ、軍馬も失った。彼らはアナトリア横断に100日もかけた。十字軍全体の指揮を誰が執るのかということに関しては結論が出ることはなかった。全体の統率ができるほど強力な指導者がいなかったためであるが、全体の中ではレーモン・ド・サン・ジルとアデマールが指導者的地位を認められていた。
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