ドイツ、ルーマニア軍の対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 14:59 UTC 版)
「ヤッシー=キシニョフ攻勢」の記事における「ドイツ、ルーマニア軍の対応」の解説
8月23日、ルーマニア国王ミハイ1世による宮廷政変(en)が発生、ルーマニア指導者イオン・アントネスクは失脚することとなった。ドイツ軍部隊は翌日、この政変を鎮圧するためにブカレストの制圧を試みたが、アメリカ空軍の航空支援を受けたルーマニア軍に跳ね返された。プルト川西岸からブカレストへの攻撃を支援するために侵入したドイツ軍部隊は迅速な進撃を見せたソ連軍によって分断、無効化された。同時にプロイェシュティ油田の防衛を担っているドイツ軍部隊はルーマニア軍の攻撃を受け、ハンガリーへの撤退を試みたが、途中、大損害を負った。この戦いの間、ルーマニア軍はドイツ軍将兵50,000名を捕虜としたが、彼らは後にソ連軍に引き渡された。 ルーマニアの情報によれば、外的要因(ソ連軍の攻撃)が支援だけを行う間、内的要因(ルーマニア軍のクーデター)がルーマニアをナチスから解放するのに決定的な役割を果たしたと主張しているが、この出来事におけるソ連の立場とは著しく異なっており、地元の反乱軍の力を借りたソ連軍の攻撃によってルーマニアのクーデター、解放へつながったとされている 。
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