ソールズベリー伯の接近
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 15:38 UTC 版)
「オルレアン包囲戦」の記事における「ソールズベリー伯の接近」の解説
7月と8月の間、ソールズベリー伯はパリ南西部の田園地帯に侵攻し、ノジャン=ル=ロワ、ランブイエおよびシャルトル周辺のエリアを回復した。その後ソールズベリー伯は南西のアンジェ方面には向かわず、南東のオルレアン方面に進軍した。ロワール川方面を攻め、8月にル・ピュイセとジャンヴィルを占領した。そこからは、オルレアンを北側から直接攻めず町を通過、まずオルレアンの西側の田園地帯を占領した。彼は素早く攻略したモン=シュル=ロワールの町でロワール川にたどり着き、別働隊が川を渡りクレリの聖堂を略奪した。 ソールズベリー伯はブロワ方面の下流側にも若干の攻勢をかけ、ボージャンシーの橋と城を奪取した。ここでロワール川を渡り、南側からオルレアンに接近し、10月7日にオルレアンから1マイル程離れたオリヴェの町に到着した。その間に、ジョン・ド・ラ・ポール(John de La Pole)指揮下のイングランド軍の別部隊が、オルレアン東部の上流地域を占領するために送られてきていた。10月5日にジャルジョーの町が陥落し、程なくしてシャトーヌフ・シュール・ロワールが陥落した。一方でブルゴーニュ派勢力が更に上流側のシュリー=シュル=ロワールを攻略した。オルレアンは切り離され、包囲された。 デュノワはオルレアンの防御に人員を配置し、イングランド軍の包囲網を監視し、オルレアンの町を包囲戦に備えることに気を配った。彼は約1⁄4マイル(400m)の長さの橋に狙いを定め、ロワール川南岸より、北岸の都市であるオルレアン中心部に入ってくることを正確に予測していた。この橋は、ソールズベリー伯がオルレアン中心部の射程圏にイングランド軍の大砲を配置するのに最適な場所である中州のサン・アントワーヌ(Saint-Antoine)島を通過していた。橋の南端は、小塔のある守衛詰所「トゥーレル砦(Les Tourelles)」であり、川の上に建ち、跳ね橋で南岸と繋がっていた。 デュノワは急いで南岸に大きな土塁を築き、大部分の軍を配置して、橋を防御する大きな要塞化された複合施設を造りあげた。城壁上の通路(ブールバール)をちょうど横切った場所にアウグスティノ会の修道院があり、この橋に接近してくる者に対する側射用の場所として使用することができたが、デュノワは使用しなかったと思われる。彼の命により、オルレアン南部の郊外の住民は避難し、すべての建物は、イングランド軍に奪取されるのを防ぐために破壊された。
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