スペインの対策とは? わかりやすく解説

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スペインの対策

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/12 15:25 UTC 版)

スペイン・ポルトガル戦争 (1776年-1777年)」の記事における「スペインの対策」の解説

ポルトガル同盟国グレートブリテン王国アメリカ独立戦争手を焼いていたため介入してくる恐れはなかった。そのため、スペイン王カルロス3世はすぐに手を打った。彼はペドロ・アントニオ・デ・セバーヨス総督リオ・デ・ラ・プラタ副王昇進させ、遠征率いるよう命じた。セバーヨスは1762年から1763年第一次遠征ポルトガル領深く進軍した上でコロニア・デル・サクラメント占領してその能力証明していた。 セバーヨスはこのときスペイン本国滞在しており、彼はカディス遠征隊を組織した。彼は9千人戦列艦6隻(70門艦ポデロソ(Poderoso)、64門艦サンティアゴ・ラ・アメリカ(Santiago la América)、70門艦サン・ダマソ(San Dámaso)、70門艦セプテントリオン(Septentrión)、70門艦モナルカ(Monarca)、70門艦サン・ホセSan José))、フリゲート6隻、いくらか小型船輸送船100からなる艦隊準備した艦隊指揮官はカサ・ティリー侯爵スペイン語版)フランシスコ・ハビエル・エベラルド=ティリースペイン語版)だった。艦隊11月20日カディス出港途中でポルトガル船を数隻拿捕しつつ1777年2月18日南米到着した。 セバーヨスの艦隊はそこでロバート・マクドゥオールに遭遇したが、マクドゥオールの艦隊小さく逃走成功した。 セバーヨスは2月23日サンタ・カタリナ島への攻撃決定したポルトガル駐留軍スペイン大艦隊が兵士上陸させるところを見ると、抵抗もせず内陸逃亡した3月20日、セバーヨスは続いてリオ・グランデ・デ・サン・ペドロに向かったが、嵐で艦隊はぐれたためモンテビデオ戻った。彼はそこで軍を2手に分けた。彼が自ら率いた部隊全ての大砲をもって5月23日コロニア・デル・サクラメント包囲開始6月3日降伏させた。 艦隊残りはまだ脅威になっているマクドゥオールの艦隊追跡した実際、マクドゥオールの艦隊はぐれたスペインサン・アグスティンSan Augstin)を拿捕、サント・アゴスティーニョ(Santo Agostinho)に改名した。代わって艦長になったのはポルトガル海軍従軍していたイギリス人アーサー・フィリップであり、彼は後にポート・ジャクソンシドニー)を創建したサクラメント占領した後、セバーヨスはリオ・グランデ・デ・サン・ペドロへの前進開始した。彼はサンタ・テレサにいたフアン・ホセ・デ・ベルティス・サルセド部隊合流したが、講和交渉開始したため進軍停止命じられた。

※この「スペインの対策」の解説は、「スペイン・ポルトガル戦争 (1776年-1777年)」の解説の一部です。
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