スペインの対策
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「スペイン・ポルトガル戦争 (1776年-1777年)」の記事における「スペインの対策」の解説
ポルトガルの同盟国グレートブリテン王国はアメリカ独立戦争に手を焼いていたため介入してくる恐れはなかった。そのため、スペイン王カルロス3世はすぐに手を打った。彼はペドロ・アントニオ・デ・セバーヨス総督をリオ・デ・ラ・プラタ副王に昇進させ、遠征を率いるよう命じた。セバーヨスは1762年から1763年の第一次遠征でポルトガル領に深く進軍した上でコロニア・デル・サクラメントを占領してその能力を証明していた。 セバーヨスはこのときスペイン本国に滞在しており、彼はカディスで遠征隊を組織した。彼は9千人と戦列艦6隻(70門艦ポデロソ(Poderoso)、64門艦サンティアゴ・ラ・アメリカ(Santiago la América)、70門艦サン・ダマソ(San Dámaso)、70門艦セプテントリオン(Septentrión)、70門艦モナルカ(Monarca)、70門艦サン・ホセ(San José))、フリゲート6隻、いくらかの小型船、輸送船100隻からなる艦隊を準備した。艦隊の指揮官はカサ・ティリー侯爵(スペイン語版)フランシスコ・ハビエル・エベラルド=ティリー(スペイン語版)だった。艦隊は11月20日にカディスを出港、途中でポルトガル船を数隻拿捕しつつ1777年2月18日に南米に到着した。 セバーヨスの艦隊はそこでロバート・マクドゥオールに遭遇したが、マクドゥオールの艦隊は小さく、逃走に成功した。 セバーヨスは2月23日にサンタ・カタリナ島への攻撃を決定した。ポルトガルの駐留軍はスペインの大艦隊が兵士を上陸させるところを見ると、抵抗もせず内陸に逃亡した。3月20日、セバーヨスは続いてリオ・グランデ・デ・サン・ペドロに向かったが、嵐で艦隊がはぐれたためモンテビデオに戻った。彼はそこで軍を2手に分けた。彼が自ら率いた部隊は全ての大砲をもって5月23日にコロニア・デル・サクラメントの包囲を開始、6月3日に降伏させた。 艦隊の残りはまだ脅威になっているマクドゥオールの艦隊を追跡した。実際、マクドゥオールの艦隊ははぐれたスペイン船サン・アグスティン(San Augstin)を拿捕、サント・アゴスティーニョ(Santo Agostinho)に改名した。代わって艦長になったのはポルトガル海軍に従軍していたイギリス人アーサー・フィリップであり、彼は後にポート・ジャクソン(シドニー)を創建した。 サクラメントを占領した後、セバーヨスはリオ・グランデ・デ・サン・ペドロへの前進を開始した。彼はサンタ・テレサにいたフアン・ホセ・デ・ベルティス・サルセドの部隊と合流したが、講和交渉が開始したため進軍の停止を命じられた。
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