スペイン、オーストリアの分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 01:20 UTC 版)
「金羊毛騎士団」の記事における「スペイン、オーストリアの分裂」の解説
カール5世は、スペイン及びネーデルラントを長男フェリペ2世に、オーストリア、ハンガリー及びボヘミアを弟フェルディナント1世に継承させたため、ハプスブルク家はオーストリア本家とスペイン系(アブスブルゴ家)の2系統に分かれた。ブルゴーニュ公位並びに金羊毛騎士団の地位もフェリペ2世が受け継いだ。フェリペ2世は、ローマ教皇グレゴリウス13世の許可を得て、騎士団集会での選出以外に、騎士団長のみの叙任ができるようにした。 その後、近親婚も原因で、カルロス2世は先天的に虚弱であり、スペイン・ハプスブルク家は断絶する。この際、カルロスの異母姉でフランス王妃マリー・テレーズの孫であるアンジュー公フィリップが後継者指名を受けていたが、神聖ローマ皇帝レオポルト1世は末子のカール大公(後、神聖ローマ皇帝カール6世)を推したためスペイン継承戦争が勃発した。最終的に、フィリップが『フェリペ5世』となることで決着し、今日まで続くスペイン・ブルボン家(ボルボン家)が興る。一方、ネーデルラントとブルゴーニュ公位はオーストリア領ネーデルラントとして、オーストリア側に移った。 その結果、18世紀初頭以降、スペイン及びオーストリアの双方から叙任(授与)される騎士団勲章となった。分裂後、騎士団勲章をオーストリアに定着させた点において、オーストリア金羊毛騎士団の初代主権者となったカール6世を第2の創設者と評価する見方もある。 オーストリア宮廷においての騎士団勲章は、ブルゴーニュ公国時代からの伝統に基づく壮麗な儀式に加え、様々な儀式や式典で皇帝に近い席を与えられるなど、名誉と特権を可視化し、高い地位を維持し続けた。1740年のカール6世崩御後、長女のマリア・テレジアが実質的な『女帝』としてハプスブルク君主国を継承。騎士団主権者は、夫である皇帝フランツ・シュテファンが継承したが、運営には女帝自身も深く関与した。マリア・テレジアはオーストリア継承戦争や七年戦争の勝利を目指し、ハウクヴィッツ伯爵を抜擢して内政改革等に取り組んだ。女帝はハウクヴィッツ伯爵を信頼し重用したが、この改革は高位の貴族からの反発も大きかった。 金羊毛騎士団勲章には、団員選出の基準に明確な功労が定められておらず、高位貴族のみのステータスシンボルとして捉えられている面もあった。しかし、女帝は夫を通じて、アーヘンの和約後にカウニッツ伯爵を、士官学校創設後にダウン将軍をそれぞれ金羊毛騎士に叙任させ、その功労に報いている。1759年11月29日、フランツ・シュテファンの推薦を得た他の2名の貴族とともに、ハウクヴィッツ伯爵は騎士に叙任された。騎士団員を多数輩出してきた家系の貴族は、明らかな反発を示した。次代のヨーゼフ2世は、騎士団による宗教行事等の規模を大幅に縮小した。
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