シヴァージーとの決裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 07:02 UTC 版)
「アウラングゼーブ」の記事における「シヴァージーとの決裂」の解説
1666年2月に廃帝シャー・ジャハーンが死亡すると、5月にアウラングゼーブはアーグラ城へと入った。同月16日、アウラングゼーブは父帝が作らせた「孔雀の玉座」に座してダルバールを開き、アーグラに到着していたシヴァージーもこれにへと出席した、 ところが、アウラングゼーブは応対に際して、シヴァージーに侮辱的な態度で接し、そのうえ与えたマンサブ(位階)はその実力に見合わない、ラージプートの諸王よりも低いものだった。おそらく、アウラングゼーブは、マラーターが新興カーストであることで、地位的にはさして重要なものとは思っていなかったのであろうと考えられる。シヴァージーはこれに激怒し、面会中に公然と自身の感情を吐き捨てて宮廷を退去し、アウラングゼーブとの関係は悪化した。 シヴァージーはのちにデカンへの帰還を求めたが、アウラングゼーブはこれを許さず、従者には帰還を許したものの、彼と息子サンバージーは事実上監禁された。シヴァージーは皇帝アウラングゼーブにジャイ・シングと取り決めた条約、ビジャープル王国への攻撃などの忠誠を示した行動を思い出させようとしたが、無駄であった。 だが、アウラングゼーブはその逃亡を防ぐため、その住居のまわりに監視させ続けるだけに留めた。そのため、シヴァージーは本国への逃亡を考え、8月にシヴァージーと息子サンバージーは2つの大きな籠に隠れて城を脱出し、本拠ラーイガドに帰還した。ここにアウラングゼーブとシヴァージーの決裂は決定的なものとなった。
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