サン・セバスティアンへの接近
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「サン・セバスティアン包囲戦」の記事における「サン・セバスティアンへの接近」の解説
当時、サン・セバスティアンの人口は9,104人であり、保守的とされたギプスコア地方の中ではリベラル寄りであった。同市は北のフランスとガスコーニュ、および南のスペインの影響を受けていた。また住民はバスク人が大半であった。 ナポレオンがフランス皇帝に即位した後、彼の兄ジョセフ・ボナパルトは1808年にスペイン王ホセ1世として即位した。多くの文献でフランス寄りとされたフランシスコ・アモロースはその後同市の最高行政官に任命された。新しい市政府は住民に歓迎されなかったが、それでも1813年まで平和が続き、フランス軍は受け入れられていた。この危ういバランスは1813年6月、ビトリアの戦いで負けたフランス軍がルイ・エマニュエル・レイ(英語版)に率いられて入城したときに破られた。 サン・セバスティアンはビスケー湾にある半島に位置していた。城塞の南側は大きな角堡(英語版)とその上にある大砲で守られていた。ウィリアム・デント(英語版)は「これは私が見てきた要塞の中でジブラルタルを除いて一番強いものだ」と書いた。東側ではウルメア川の入り江があった。イギリス工兵は市の南東部に弱点を見つけた。干潮時は市の東と南から渡河して襲撃することができた。大砲は東部の砂丘と南部に置くことができ、大砲に対する反撃は川で阻まれてしまうのであった:336。 イギリス海軍はビスケー湾封鎖の艦隊が力不足のため期待できなかった。このためフランスの補給船は度々援軍を連れてやってきて、負傷や病気の兵士を連れて行くことができた。したがって、ウェリントンは兵糧攻めに期待できず、城壁に突破口を作って襲撃で落城させるしかなかった。
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