サスーン蜂起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 05:32 UTC 版)
「アンドラニク・オザニアン」の記事における「サスーン蜂起」の解説
1903年、アンドラニクはオスマン政府に対して、アルメニア人への弾圧を停止し、政治改革を行うよう要求した。過去からその当時に至るまでフェダイが最も集中していたのは、伝統的にアルメニア人人口が圧倒的多数を占めるサスーンの山岳地帯およそ1万2千平方キロメートルの範囲だった。その地域では、現地のアルメニア人が「革命的混乱状態」を理由に過去7年間納税を拒否していた。同年秋、アンドラニクはフライル・ジョギク (en)、セボウ・ネルセシアン (en) ら数十人のフェダイとともにサスーンのゲリエグザン村 (Gelieguzan) で会議を開き、トルコ人とクルド人による襲撃からのアルメニア人村の防衛について話し合った。その席上でアンドラニクがタロン(英語版)とヴァスプラカン(ロシア語版)のアルメニア人を糾合した広範囲な蜂起を示唆すると、対してフライルはアルメニア人ゲリラの不足を理由に、サスーンのみでの小規模な蜂起を提案した。最終的に会議ではフライルの提案が承認され、アンドラニクはその蜂起の主要指揮官に選任された。 主な衝突は1904年1月に、オスマン政府に支援されたクルド人ゲリラとの間に発生した。4月上旬からオスマン側が反撃を開始すると、百人から2百人のフェダイ及び7百人から千人の現地のアルメニア人に対して、1万人から2万人のオスマン兵及び約7千人のクルド人ゲリラが投入され、激戦の中でアンドラニクは生き残ったがフライルは死亡した。蜂起の2か月間で7千人から1万人のアルメニア人が虐殺され、9千人が家を失い、サスーン全体で約4千人が亡命を余儀なくされた。より小さな衝突はその後も発生したが、トロツキーはこれについて、当時の国際的な関心は日露戦争にあり、この蜂起は列強とロシアにほぼ無視されたとしている。
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